JRお茶の水駅の聖橋のたもとに椋(むく)の大木がある。
これはご神木で、「一口(いもあらい)太田姫神社」の「元宮」(もとみや)だという。縁起由来には、神社が江戸城の鬼門の護り神としてここに移されたが、昭和6年に総武線開通に伴い現在の駿河台に移ったという。元宮というのは、「奥宮」ともいい、もともとの場所で、社殿はないがここは神社なのである。
先週、この木に注連縄(しめなわ)をわたしていた。いよいよ年の瀬である。
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中村哲先生の伯父で芥川賞作家の火野葦平は、本名、玉井勝則。早稲田大学で活発におこなっていた文学活動をいったん止め、1929年(昭和4年)、父親の玉井金五郎から家業の「玉井組」を継いだ。
1931年(昭和6年)、25歳のとき、若松港沖仲仕労働組合を結成し書記長に就任。8月にはゼネストを敢行。さらに北九州プロレタリヤ芸術聯明結成と、労働運動とならび左翼芸術運動に熱心にかかわっていく。この時期に中村さんの父、中村勉とは同じ左翼運動をする仲間として、強い影響を与え合ったと思われる。
そして翌1932年2月末、治安維持法による大弾圧で火野葦平は逮捕され、その後、転向し、再び文学の道に戻っていった。
「ごんぞう」と呼ばれていた沖仲仕を束ねていた玉井組は、労働組合の先駆のようなものだった。玉井家の跡継ぎの火野葦塀が沖仲仕労働組合を作ったのは自然な流れだったのだろう。
当時の若松の「ごんぞう」はその多くが朝鮮人だったという。玉井家では、だれも差別せずに扱うという家風であったことは中村さんが祖母(金五郎の妻)玉井マンから受けた説教からもうかがえる。
「この祖母の説教が、後々まで自分の倫理観として根を張っている。弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賤がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのことだと思うことがある。」(『天、共に在り』P27~30)https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/12/14/140736
中村さんは子どものころの玉井家の思い出をこう書いている。
「生活の中心だった玉井の家は大きな邸宅でした。普段から労働者や流れ者風の男たちが行き交い、子供がうじゃうじゃといました。例えば私が兄だと思っていた兄弟が、よくよく聞いてみると従兄弟(いとこ)だった、なんてことも珍しくない。三世代、四世代が入り乱れて住んでいましたね。」
(「新・家の履歴書」週刊文春2016年9月1日号)
https://bunshun.jp/articles/-/16860
大家族で、多くの労働者が自由に出入りする玉井家の雰囲気は、戦後もある程度残っていたようだ。まわりの人たちが分け隔てなく付き合うなかで育った日々は、中村さんの人格形成にとって重要な要素だったことをうかがわせる。
(つづく)