「重荷を負いあい支えあう」(中村哲)

ロウバイ

 10年前に種を植えた蝋梅が初めて花をつけた。今朝も寒いな。

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 今週、ワシントンDCで日米両国の外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)と日米首脳会談が行われるという。

 NHKの取材に対し、エマニュアル駐日大使は「岸田総理が予算まで実行したことで、(バイデン)大統領は今年早々に岸田総理をホワイトハウスに招きたいと考えたのです」と語る。

NHK国際報道より


 「『これが私たちの目標だ』というのと『これが目標を実現させるための予算だ』とは全く別の話」(大使)だからだという。ここまでやってくれたのか、あっぱれ、というわけで岸田総理がホワイトハウスに呼ばれたと、エマニュエル大使は率直に言う。

 日本政府は2022年末に国家安全保障戦略など安保関連3文書を閣議決定し、「敵基地攻撃能力」の保持、そして2027年度に防衛関連経費をGDPの2%にすることをうたっている。「2プラス2」では米国と安保・防衛協力の「認識を擦り合わせる」という。

 大使はに日米がAlliance Protection(守りの同盟)からAlliance Projection(打って出る同盟)に変化したとし、今後の日本の役割に大きな期待をかける。バイデン大統領はIntegrated Deterrence(総合抑止力)という考え方を打ち出し、米軍だけでなく、外交や経済力、同盟国など関係国の力を活用して抑止力を築く方針に転換した。要は、米国の相対的な弱体化によって一国だけでは「警察官」の役割を支えられず、日本のような「ポチ国家」はもっと前面に出よということだ。

 大使は国連でASEAN10か国のうち8か国がロシア非難に回ったことを「日本の外交の働きかけによる成果」とたたえる。欧米vsロシア・中国の分断・対立のなか第三極のいわゆる「グローバルサウス」をどう味方につけるかがポイントになっているが、そこに日本が切り込み隊長として出張っていくことが期待されている。

 対ロシアをにらんだエネルギー戦略も協議されるとのことで、アラスカのLNGを購入することや小型原発のSMR(小型モジュール炉)を日米が連携して世界に輸出することなどもテーマになるという。

 「聞く耳」を全く持たずに暴走を続ける岸田総理、米国に呼ばれて何を約束してくるのか、注視しよう。

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 前回の続きで、中村哲医師の思想、生き方を辿っていこう。

 そもそも、中村哲医師がパキスタンアフガニスタンに支援に乗りだしたのはなぜか。今回はその初心を取り上げる。

 はじめのきっかけは、中村さんが蝶が見たいばかりに1978年、パキスタンへの登山遠征隊に同行、山奥の人々が医療にアクセスできない現実を知ったことだった。1983年にパキスタン北西部のペシャワールへの赴任を決意。9月には中村さんを支援するペシャワール会が発足、中村さんは英国での研修の後、84年に現地に入る。

 ペシャワールにあったのは「汚い聴診器が一つと、ディスポ(使い捨て)の注射器をなんべんも使っていました」という劣悪な医療環境だった。その現場に中村さんは飛び込み、2千数百人のライ(ハンセン氏病)の患者を担当することになる。

 なんでまた、そんなところに行くの?(しかも、妻と小さい子どもまで連れて・・)と聞かれた中村さんは―

浪花節的ですが、大和魂がだまってられん、ということでしょうね」という。相手は笑っておしまいになるのだが、もちろんそれだけではないはずだ。
 実は、この決意を支えるのは、現代世界の不条理への憤りとわが日本のありようへの冷徹な批判だと思われる。

 中村さんはペシャワール赴任の直前、84年1月に、熱帯病の研修先の英国リヴァプールから手紙「ペシャワール会会員の皆様へ」を書き送っている。そこにはこう書かれている。

「今日の日本の繁栄に限らず、全ての『繁栄』と名のつくものは、弱者の犠牲の上に築かれてきたことを否定するものはいますまい。悲しいまでに徹底したこの構造は、今日の緩和されるどころか、明らかには意識されにくい形で強化されているというのが現状であります。もし日本の中に平和と平等があるというものがあれば、それは、コップの中の平和と平等である。」

 そして、自身の力は小さく、医療援助が社会を変えるようなことには貢献できないとことわりつつも、以下のように「希望」を語っている。

「それでもなお私たちは重荷を負いあい、支えあって生きるという姿勢を捨てるべきではありません。世界が金と力で動かされ、利己主義や敵意、我執や妬みで満ちているとはいえ、この世界をかろうじて破滅から守っているのは、このような『支えあう』という善意の努力かも知れません。少なくとも、たとえわずかであってもわが身をけずって分ちあうことが、どんなに暖かい光となって私たちをうるおすか、はかり知れません。」

 中村さんは、日本人である自身のある種の「原罪」を背負ったうえで、「支えあう」善意に賭けていたのではないだろうか。

 手紙の最後には、八木重吉の詩が記されていた。

もえなければ かがやかない
かがやかなければ
せかいはうつくしくない
わたしがもえなければ
あたりはうつくしくない

(つづく)