中村哲医師に学ぶ世界の不幸への向き合い方(その2)

 藤沢周平の小説を再び読んでいる。

 本ブログで何度も紹介してきた、同郷の尊敬する作家である。

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 ちょっと目的があって、山形県のリアルな人物や地名が出てくるものを、詳しめの地図と照合しながら読んでいる。

 いま読んでいるのは『雲奔(はし)る~小説・雲井龍雄米沢藩の人なので、私に縁のある場所が出てきて楽しい。

藤沢周平。人柄のにじみ出るいい表情だ

 私にとって最高の娯楽で、いい気分転換になる。
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 とてつもない大事業をなしとげた中村哲さんだが、好きな言葉は、意外にも「一隅(いちぐう)を照らす」だそうだ。隅っこの一画を明るくするという意味だ。

 天台宗の開祖、最澄の『山家学生式(さんげがくしょうしき)』の冒頭に出てくる言葉で、最澄の師、唐の湛然(たんねん、天台宗第六祖)の著『止観輔行伝弘決』にある次の話を踏まえているという。

 むかし、魏王が言った。「私の国には直径一寸もの玉が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ」。すると、斉王が答えた。「私の国にはそんな玉はない。だが、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」と。

 『山家学生式』は、最澄が「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいとの想いを著述し、嵯峨天皇に提出したものだという。最澄にとっては、「一隅を照らす」人こそ、大乗の菩薩であり、そういうリーダーが国を導いてほしいと思っていたのだろう。

 中村哲さんはクリスチャンだが、仏教にちなんだ言葉を座右の銘にするとは、これも型にとらわれない中村さんらしい。

 この言葉については、こう言っている。

「一隅を照らすというのは、一つの片隅を照らすということですが、それで良いわけでありまして、世界がどうだとか、国際貢献がどうだとかという問題に煩わされてはいけない。

 それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で人としての最善を尽くすことではないかというふうに思っております。

 今振り返ってつくづく思うことは、確かにあそこで困っている人がいて、なんとかしてあげたいなあということで始めたことが、次々と大きくなっていったわけですけれど、それを続けてきたことで人間が無くしても良いことは何なのか人間として最後まで大事にしなくちゃいけないものは何なのか、ということについてヒントを得たような気がするわけです。」(中村捏『医者よ、信念はいらない まず命を救え!』羊土社より)

 「一隅」とは自分の身近な場でよい。
 仕事場や家庭かもしれないし、趣味のサークルや習い事の場かもしれない。大それたことを考えずとも、自分の持ち場で少しでも人のためになればとの願いを込めて、しっかりと毎日を生きる。その積み重ねが大事だというのだ。

 アフガニスタンの田舎の水路は、ほんとうの平和とは何だろうかという問いを世界になげかけている。

 実は、世界は、宇宙はすべてつながっている。

 それぞれにとっての「一隅」を照らしていくことが、世界の悲惨への向き合い方だという哲学に、心から感銘を受ける。

 

「照一隅」と座右の銘を見せる中村哲さん「歴史秘話ヒストリア比叡山延暦寺 最澄1200年のメッセージ」より

 私が憧れの中村哲さんにお会いした時のことについては―

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