中村哲医師の命日によせて

陽だまりで 何を語らう 菊のむれ 
        中村哲医師の一句

ペシャワール会カレンダー12月

 12月4日は、中村哲医師が亡くなって5年だった。

 2019年12月4日の朝、アフガニスタン東部のジャララバード市内で、灌漑作業地に向かう途中、何者かに銃撃され、中村医師と運転手や護衛のアフガン人5人が命を落とした。享年73だった。

 3日の朝日新聞天声人語」が中村医師を取り上げた。

 《22年前に初めて会ったとき、「途上国のあらゆる悩みが集まったのがアフガンです」と言っていた。貧困、紛争、難民。これらの根源には「干ばつがある」とも。
当時は米同時多発テロの翌年で、世界の注目は米政権が掲げる「対テロ戦争」にあった。米英軍のアフガン空爆タリバン政権が崩壊し、東京でアフガン復興の支援会議が開かれた。国際政治が声高に語られるなかで聞いた干ばつの話に、虚をつかれたのを思い出す。》

 中村医師の書いたり話したりしたものからは、ものごとの本質をバシッとつかむ力が並外れていることがわかる。貧困、紛争、難民・・・と問題がいくつも並列されるが、その根源が干ばつだと指摘されて、当時は記者だったコラムの筆者は「虚を突かれた」。

 中村医師が何と闘ったかというと、戦争ではなく、地球温暖化だったのである。中村医師が立ち上げた灌漑プロジェクトによって、人々が水を得て畑を耕し、家族と食事をとれる村落がよみがえった状態を「平和」と中村さんは言ったのだ。

 中村さんは戦争に反対した平和主義者といった政治的な文脈で語られることが多いので意外に思われるのだが、「干ばつ」が彼を動かし、大規模灌漑を成功させ、最後はそのために斃れたと言ってよい。

takase.hatenablog.jp

 

takase.hatenablog.jp

 

 私が中村医師の「平和論」を要約するならば、「干ばつで人がばたばた死んでいくときに戦争どころじゃないだろ!」となる。あくまでも「干ばつ」をどうするかが先なのだ。中村さんは2000年以降、地球温暖化との闘いの最前線にいたのである。SDGsなんて言葉が出る前から。

 中村さんが強調したのが、「命を愛惜し、身を削って弱者に与える配慮、自然に対する謙虚さ」である。

 ウクライナ戦争で世界的に温暖化対策が弱まり、米国大統領選の結果に象徴される何とかファースト、自分だけ、自国だけの利益を優先する風潮が強まるいま、中村哲医師の志はいっそう輝いて見える。

 4日、アフガニスタンの中村医師のプロジェクト地では日本からペシャワール会の代表者らの列席のもと記念式典が行われた。その前日には、新たな水路の通水式があった。中村医師は生前、「後継者は?」と聞かれ、「私の後継者は用水路」と答えたという。中村医師亡き後も、現地の人々とペシャワール会が次つぎに新たな水路を拓き、農村振興事業を受け継いでいるのはすばらしい。テレビニュースでは、2年前に現地でお会いした懐かしい顔も散見された。

日テレより3日の式典

NHK国際報道

中村医師の薫陶を受けたディダール技師(NHK国際報道)


 さらに、中村医師の支援の原点であるらい病(ハンセン病)診療を再開する検討を始めたとのニュース。中村医師はもともと84年5月にパキスタンペシャワールの病院に赴任してらい病の治療を担当したのが支援活動の始まりだった。パキスタンでは多くのらい患者がいたが、これを専門に診る医師はほとんどいなかった。らい患者地域と山奥の無医村が重なることから、国境を越えて山岳地域に次々に診療所を設立。難民キャンプでは巡回診療を行い、そこで出会った若者を診療スタッフに養成していった。

朝日新聞4日朝刊

 しかし、2001年に同時多発テロを口実に米国などが対テロ戦争を開始、タリバン政権が倒れると治安が悪化し行政が混乱、山岳地帯の最大6カ所あった診療所は5カ所を手放した。

 2000年の大干ばつ以降は、水を求めて大河クナール河から用水路で灌漑を行う事業に注力し、一昨年私が訪問した診療所は維持されていたが、奥地のらい病患者には手が届いていなかった。今年1月に地方政府から協力要請があり、治安が回復したことから、巡回診療を検討しているという

 6日の朝日新聞夕刊は、東京・立川市拘置所で、中村医師の『希望の一滴』を課題本にして受刑者の読書会が開かれたとの記事を載せている。こういう取り組みが受刑者らが生き方を振り返る機会になっているという。ちなみにこの本は、中村医師の地元福岡の「西日本新聞」への寄稿をまとめたもので、とても心に染みる。中村医師の本はこうした読書会に最適だと思う。中村医師の「己が何のために生きているかと問うことは徒労である。人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ」という生き方をどう捉えるか。受刑者に限らず、誰もが深く考えさせられる。

6日夕刊一面

 この読書会の進行役は「刑務所での取材経験が豊富なジャーナリストの大塚敦子さんと、自ら30年以上読書会を続けてきた翻訳家の向井和美さん」と記事にあった。懐かしい名前。大塚さんは1986年のフィリピン2月革命の取材でたまたま知り合った。若い元気のいい女性カメラマンで、記憶がおぼろだがミンダナオ島の危険な取材を共にしたはずだ。

 「刑事施設での読書会は、海外でも事例がある。現地で取材を重ねた大塚さんによると、米国のほか、英国で少なくとも60以上、カナダでは36の刑務所で実施され、運営はNPOなどが担うという」とある。

 来年6月には懲役刑が廃止され、更生と社会復帰を重視する拘禁刑が導入されるという。少しづつだが、受刑者の受け入れを進める方向に動いているのは好ましい。