ロシアのウクライナ侵攻は、新聞の歌壇でも戦争を否定する歌によく詠まれている。
若い世代はどうなのかと、歌人の今野寿美氏が文芸授創作の授業で題「ウクライナ」としてみた。以下、女子大生の2首。
勝ち負けをジャンケンで決める僕たちはキエフがキーウとなったと知らず (堀川珠璃依)
明日があることに苦しむ僕たちと明日を生きたいと祈る彼ら (吉井万由子)
今野寿美氏は、「この二首の社会意識、表現の喚起力の感心してしまった」という。前者が能天気な若者に、後者が厭世観に浸りがちな若者に成り代わって詠みつつ、それでいいのかと問いかけ、また戦争の理不尽さを浮かばせていると評価する。(朝日新聞8月7日付「朝日歌壇」より)
若者の感性とかみ合った問題提起ができれば、何か大きな動きが起きる予感がした。
ところで、いま若い女性は一人称に「僕」を使うのが当たり前だそうだ。若い女性のシンガーソングライターが、「ぼくは~」と歌うのはそのまま女性の自分を歌っているのか・・。
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小泉純一郎総理の訪朝を実現させたのは、田中均アジア大洋州局長(当時)による1年におよぶ秘密交渉だった。その舞台裏をNHKに語った。
この経緯は、田中氏自身の著書や対談などで明らかにされているが、それらに出ていないことも語っており、ここに紹介したい。北朝鮮との外交を進める上で教訓に富む内容が語られている。《》は私の感想。
2001年9月、小泉訪朝の1年前、田中氏は小泉総理に北朝鮮との交渉を提案した。
北朝鮮との懸案を解決し、半島に平和を作ることこそが日本の国益につながると考えていたからだ。
(総理に)「朝鮮半島で何としてでも活路を開きたい。交渉してもいいですか」という話をしたら、小泉さんは「いや田中さん、それやってくれ。だけど絶対秘密だ。というのは人の命がかかってるから秘密だ」といった。
《田中氏の方から交渉しましょうと総理に提案したという。当時は官僚がイニシアチブをとることがあったのかと感慨深い。官僚にも「サムライ」がいたんだな。それに小泉総理が即座に決断して「やってくれ」と乗る。情景が目に浮かぶようだ。
安倍総理が官邸主導の態勢に変えてから、官僚発のアイディアで新たな施策がとられることは激減したのでは、と推測する。》
政府内で当初、交渉の存在を知らされていた人は片手で数えられるほどだった。
安倍氏は小泉訪朝で大きな存在感をアピールし、人気を得ていくのだが、実は北朝鮮との交渉を進めるにあたって、小泉総理から信頼される間柄ではなかったのである》
秘密を守るため、交渉は第三国で週末に行われた。舞台は主に中国の大連や北京のホテルだった。
01年秋、姿を現した北朝鮮の交渉相手は、キムチョルと名乗った。後に日本で「ミスターX」として知られるようになる男性だ。
雰囲気から軍や諜報機関の幹部に違いないと田中氏は感じた。オーバーを脱ぐと勲章のついた黒い軍服姿だった。自分は命を懸けているという意思表示だったのかもしれないと田中氏は思った。
自分は交渉がうまくいかなかったら責任をとらなければいけないと言っていた。北朝鮮の場合はそれは往々にして「死」なのだと言う。
田中氏はミスターXにあることを要求した。
「北朝鮮にスパイ容疑で拘束されている日本人の元記者を無条件で解放してほしい」。
ミスターXが、北朝鮮で実力がある人物かを見極めようとしたのだった。要求をして間もない02年2月、2年以上拘束されていた元記者が無条件で解放された。
「名前がどうあれ、どこの所属であれ、北朝鮮と交渉するにあたって、信頼できる人物であるということは、私には確信ができた、ということですね」(田中氏)
《北朝鮮では政府機関、例えば外務省などは力を持たない。「指導者」と直に連絡でき権限を与えられている人物かどうかが交渉の成否を分ける。適切な交渉のルート、交渉者を選ばなければならないのだ。田中氏はその見極めのための「テスト」をしたわけである。
ミスターXは秘密警察の「国家安全保衛部」の幹部だったようだ。
相手が北朝鮮ならではやり取りで、今後への教訓になる。
なお「元記者」は日経新聞の元記者、杉嶋氏のこと。wikipedia「日経新聞記者北朝鮮拘束事件」参照。》
ミスタ―Xは交渉当初から「過去の清算」と日本からの資金を得ることにこだわった。
これに対し田中氏は、拉致問題、核ミサイル問題、国交正常化とその後の経済協力などを包括的に解決して朝鮮半島に「大きな平和」をつくろうと呼びかけ続けたという。
「日本からの資金の提供も、拉致とか核の問題を解決しないで進むことはできません、と。だからその『大きな道筋』をつくるということを自分はやりたいんだ、と(呼びかけた)」(田中氏)
しかし、02年初夏、交渉は厳しい局面を迎える。
小泉総理が訪朝する場合、それより前に拉致被害者の安否情報を明らかにすべきだと要求したとき、「その瞬間に、北朝鮮は完全に交渉を切るということになった。単に拉致の問題を世の中に明らかにして、総理は来ないということなんじゃないか、と(北朝鮮が思った)。私は、これもうダメかなと思いましたね」(田中氏)
交渉決裂の危機を乗り越えたのは小泉総理の一言だった。厳しい交渉の状況を報告した時のこと。総理が行くまで拉致被害者の安否は分からないということになる、
「答えは、『田中さん、それでいつ行くんだ』っていう話だったんですよね。もう行くのは当然だと総理は当時思ったんでしょうね。『もし、自分が行かなければ、拉致の話は全部闇に葬られてしまう』と。だから、あーそうなんだ。これが政治家なんだというふうに思った」(田中氏)
交渉が煮詰まったり、デッドロックに乗り上げたときに「政治判断」で打開する。小泉総理と田中氏がそれぞれの役割を存分に発揮して進んでいくさまは、対北朝鮮外交のあり方として学ぶところが多い。
拉致問題は扱いを間違えたら、内閣が二つも三つも吹っ飛ぶテーマである。ここに思い切って踏み込んで切り拓いていった小泉氏の度胸はすごいと今でも感心する。小泉改革など酷い施策もたくさんやったが、拉致問題での身の処し方は高く評価している》
30回の交渉の末、首脳会談への道が開かれた。
9月17日、金正日総書記はこれまで否定し続けてきた北朝鮮による拉致を認め謝罪。両首脳は日朝平壌宣言に署名した。日本が過去の植民地支配によって朝鮮の人々に与えた損害や苦痛への反省とお詫びを表明する一方、北朝鮮は日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題、すなわち拉致問題が再び生じることがないよう適切な措置をとるとした。
さらに核ミサイル問題を包括的に解決し、国交正常化の早期実現に向けてあらゆる努力を傾注することが合意された。
しかし、拉致被害者の安否情報として告げられたのは5人は生きているものの8人はすでに死亡しているということだった。拉致被害者家族の怒りと悲しみが連日大きく報道された。
10月、5人の拉致被害者たちが一時帰国を果たす。その際、約束通り再び北朝鮮に戻すか、日本に永住帰国させるかどうかが大きな議論になった。
「私が言ったのは、『(北朝鮮に)帰さないとどういうことになるかは政治的判断をされる前に考えてください』と。一つは私はこれまでやってきた交渉のルートは、きっとつぶれるでしょうということと、場合によっては、(拉致被害者の)子どもたちを帰すまでに相当長い時間がかかるかもしれません、と。」(田中氏)
政府の判断によって5人は日本に永住帰国させることが決まる。
こうした経緯から田中氏は北朝鮮よりではないかと、激しいバッシングを受けるようになった。
「最初から最後まで秘密でやれと言われ、秘密の交渉だったけど、家族会の人とか、国内メディアに対してよく説明をする余地はなかったかと思う時はある。やっぱり秘密でやったことに対するツケが来たのかもしれないですね」(田中氏)
官僚としてできることに限界を感じたと言う田中氏はやがて外務省をやめた。
今でも20年前の交渉の影響や今後の日本外交のため何が必要かを考え続けているという。
《私は当時、5人は絶対に北朝鮮に戻すべきではないとして、田中氏を批判した。もしあそこで5人を戻したら、寺越ケース(「拉致」ではないという前提で親と子が北朝鮮と日本に別れ別れに暮らすことを認めさせられる)のようになるのは目に見えていたからだ。ただ100%の正解はないので、田中氏の発言にも交渉当事者としての論理があると今は思う。5人が永住帰国してよかったと今でも思うが⦆
https://takase.hatenablog.jp/entry/20161115
田中氏が担った秘密交渉ににはさまざまな評価があると思うが、20年間一人も新たな拉致被害者を救出できていない現状を打破する上でも、田中均氏の体験を教訓化してほしい。