もう立冬か。
暦の上では冬。東北から初雪の便りが届く時節になった。
でもこの辺の公園の木の葉はまだ色が深まっていない。どこかの山に出かけて紅葉を見たいなと思いつつ、今週末からの取材の準備でせわしく、動けないでいる。
7日から初候「山椿開(つばき、はじめてひらく)」。12日からが次候「地始凍(ち、はじめてこおる)。末候「金盞香(きんせんか、さく)は17日から。
「つばき」とは山茶花(さざんか)のことで、花が咲き始める。金盞(きんせん)は金の杯の意味で、黄色の冠のある水仙の花のことだそうだ。
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岸田さん あんたは大将なんだから (三重県 山崎末男)
「スピード感」急がぬ時に言う言葉 (東京都 三井正夫)
わが総理は何をやっているのか。早急に、と言いながら何も動かさない。3日の朝日川柳に深くうなづく。
朝日新聞の北野隆一編集委員が、4日夕刊の「取材考記」で、なぜ拉致問題が進展しないのかとの疑問から日朝交渉の歩みをたどった取材について書いている。
《ここ10年で交渉の進展を感じたのは、拉致被害者らの再調査を北朝鮮が約束した14年5月の「ストックホルム合意」。(略)
合意の原型とみられるのは08年、福田康夫首相の政権下での日朝合意。09年からの民主党政権時代にも、水面下で北朝鮮との接触が続いた。ストックホルム合意は、2度の政権交代をまたいでリレーされた交渉の結果といえそうだ。
合意にもとづき始まった調査は、残念ながら実を結ばなかった。北朝鮮は14年ごろ、拉致被害者の田中実さんら2人の生存情報を内々に伝えたが、日本政府が受け取らなかったことが、のちに明らかになった。当時の外務事務次官だった斎木昭隆氏が今年9月、朝日新聞の取材に事実関係を認めた。受け取ることによる「幕引き」を懸念したとの証言もある。》
北野さんは、金丸信・元副総理の次男で22回訪朝した金丸信吾氏、33回訪朝したアントニオ猪木氏らの死去で、日朝のパイプも次々に消えてゆき、展望が見えなくなっていることを「無念でならない」と結んでいる。
この日本政府による「受け取り拒否」が田中実さんらを見捨てることになったばかりか、北朝鮮との外交的接触も断ち切ってしまう結果になったことについては、このブログで何度も指摘し批判してきた。
北野さんが挙げた斎木昭隆氏に対する取材は9月17日に朝日新聞デジタルで配信されている。
記者が「北朝鮮からは、拉致被害者の田中実さんや知人の金田龍光さんの生存情報が提供されたと報じられています」と質問したのに対して、斎木氏は―
《北朝鮮からの調査報告の中に、そうした情報が入っていたというのは、その通りです。ただ、それ以外に新しい内容がなかったので報告書は受け取りませんでした。》と答えている。
これはきわめて重要な証言だ。
記者はここで突っ込まずにすぐに別の話題に移っているが、受け取らないことを誰がどういう理由で決めたのか。
これについて論説委員の箱田哲也氏が「ことの重大性から考えても官僚だけで判断できる問題ではなく、当時の安倍首相を含む政権の意向として受け取らないことを決めたのは間違いない」とコメントしているが、その通りだ。
横田めぐみさんなど有名な被害者の新情報がないなら政権の得点にならないという判断だったと推測するが、もしそうなら拉致問題の政治利用がここに極まった形で表れている。
この斎木証言があっても、政府ははぐらかしつづけている。
《北朝鮮による拉致被害者の田中実さんと知人の金田龍光さんについて、斎木昭隆・元外務事務次官が朝日新聞のインタビューに対し、北朝鮮側から生存情報が提供されたことを認めたことについて、林芳正外相は13日、「今後の対応に支障を来す恐れがあることから、具体的内容や報道の一つひとつに答えることは差し控えたい」と述べた。
林氏は、衆院外務委員会などの連合審査会で、立憲民主党の徳永久志氏の質問に答えた。》(朝日新聞14日)
斎木証言を他のメディアが全く後追いしないのも解せない。メディアにおいても、拉致問題への感度が鈍ってきているのか。
とにかく、この問題をあいまいにしておくことは人道上も許されない。
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前回のブログで、サンプロでの「朝銀」特集が「お蔵入り」になりかけた話を書いたが、業界の人からもかなり反響があった。「いまだから話せる」ことはメディア関係者に警鐘を鳴らすためにも書いていこう。
私たちと取材をともにした野村旗守さんについて、その後の彼の活動を補足しておきたい。
サンプロ特集を作ったあと、野村さんとは取材現場で会ったりはしたが、一緒に番組を作る機会はなかった。
私が最後に野村さんと会ったのは4年ほど前だったと思う。
そのとき野村さんは、複数の団体のスポンサーを得て、広報やキャンペーンを担っていると語っていた。ジャーナリストというよりは”活動家”になっていた。
その後、野村さんは共通の友人である在日の男性に、韓国に行ってある「仕事」をしないかと持ちかけている。慰安婦関係の団体に入って内情を探ってくれれば報酬を出せるということだった。その在日男性は、スパイのようなことはできないと断ったが、特殊な筋の組織も野村さんの「スポンサー」だったようだ。私はだいぶたってからその話を知ったが、野村さんがそこまで行ってしまったことに驚き、また残念に思った。
野村さんはペンの人で、紙媒体が主な発表の場だったが、雑誌がどんどんなくなっていったことは生活の糧が細ることを意味しただろう。私の知り合いにはライターも多いが、みなさん厳しい経済状態のなか苦労している。
野村さんは後ろ盾のないフリージャーナリストという立場を捨てて、自分なりの選択をした。「汚れ仕事」もあったはずだ。彼にどんな悩みや葛藤があったのだろうか。
野村旗守さんの死去の報に、時代の変わり目に生きた一人の人間の生き方を思う。