うちの近所の梅。
先日、桜、梅、桃の違いを紹介したが、こうやって近くで見て、花柄(かへい)がないことを確認。
そして雪柳(ユキヤナギ)。
春は白い色と一緒にやってくる。
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光ファイバーを引くことになって、きょう午前はKDDIの工事要員が屋内までケーブルを引く作業に立ち会っていた。
この光通信だが、他の通信会社(例えばNTT)の光通信に契約を変える場合は、KDDIのケーブルを撤去して他社のケーブルを引きなおすことになるという。
それで思い出したのが明治期の電力事情。
日本初の電力会社「東京電燈」が小水力発電を電源として設立されたのが明治40年(1907年)で、電力は民間の自由競争ではじまる。明治末期の電力会社の数は100社以上。さらに大正時代に爆発的に増えて昭和7年(1932年)には800社以上が乱立し、料金のダンピングはじめすさまじい顧客獲得競争が見られたという。
電気が普及しはじめたころには、それぞれの電力会社が独自に電信柱を立て、電線を顧客のところまで引いた。顧客が別の電力会社に乗り換えると電線も引き直しになった。この事情が光ファイバーと似てるな、と。https://takase.hatenablog.jp/entry/20120119
光ファイバーなどのインフラは、どの会社も共通で使えるようにすべきではないのか。菅内閣は遅まきながらIT化、デジタル化を進めるというが、光ケーブルは公共財として扱うようにできないものか。
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きのうの私のブログを『ふるさと津島』の撮影・監督を一人でつとめた野田雅也さんがFBで紹介してくれた。https://www.facebook.com/masaya.noda.1
そこに野田さんがこう書いていた。
《2011年3月11日、私も都内で帰宅難民となり、高世さんが代表だった元ジン・ネットの神田の事務所に立ちよりました。テレビは三陸沿岸の被害速報を流し、「福島第一原発停止中」というテロップが…。高世さんに「現場へ行ってきます」と告げ、福島へ向かいました。あの日から続く取材は、今日も大槌町で続いています。》
そうか、あの日、野田さんが会社に来たのか・・・。日記を取り出して当日の記述をみた。
地震の瞬間は、オフィスに3人しかいなかったと書いてある。私と若手のディレクターS(女性)とY(男性)だ。
大揺れが来て大部屋のテレビが落っこちそうになったので手で押さえたのを覚えている。編集室のもう一台のテレビは落下して壊れた。ロッカー、本、書類などが床に散らばって「足の踏み場もない」と日記の記述。
ざっと片付けたあとは、断続的に余震がくるなか、私は地震とは関係のない、ある番組の企画書をひたすら書いた。そばにいたSが「高世さん、なんでそんなに冷静になれるんですか」と驚いていたが、私は企画書書きに夢中になっていたようだ。このあたりの感覚は自分でもよくわからない。危機的な状況でも、別なことに注意が向いたりすることがあるらしい。
そのうちベテランディレクターのGがやってきて、電車が動かないのでジン・ネットに4人で泊まったことになっている。日記によると、オフィスで(暗闇で)メシを食い、酒を飲んだという。
野田さんともメシ、酒をともにしたと日記には書いている。すると、野田さんは夕食を一緒にとって、ジン・ネットに泊まらずに夜出て行ったのだろうか。特別な日なのに、記憶が定かでない。老化なのか。
原発事故直後、野田さんたち数名の知り合いのフリーランス・ジャーナリストたちは、福島第一原発近くにも行って、避難する企業マスコミの記者らを横目に、精力的に取材したのだった。
その野田さんの浪江町のドローン映像が、きょうのNスペ「徹底検証・除染マネー」で流されていた。「ふるさと津島」で観たシーンだ。
番組では、浪江町津島の夫婦が、防護服で自宅に入る。「入りたくない」と言いながら。
そして妻がいう。「普通の元の通りに戻してもらいたい」。
去年除染の計画が知らされ、自宅の敷地の居宅周辺は除染対象から外されているのを知って愕然とした。除染するのは帰還困難区域全体のわずか8%だという。
夫「まさに棄民です」
「棄民」などという古い言葉がいまひんぱんに使われるのが悲しい。
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きょう、NHKのニュースでなつかしい場所と人が出てきた。
「石巻日日新聞」の報道部。輪転機が水浸しになったので、連日、マジックインキで模造紙に記事を書き、街角に張り出して市民に情報を伝えた伝説の新聞社だ。
ジン・ネットは2011年、12年と『情熱大陸』で取材させていただいた。
報道部長として出てきたのが外処(とどころ)健一さんで、『情熱大陸』取材時は記者として現場取材で走り回っていた。番組にも主人公の一人として登場している。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20120305
社長の近江さんもすごい人で、この新聞社は心から敬愛している。みなさん元気でご活躍ください。
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タイで北朝鮮による拉致問題に取り組んでいる海老原智治さんから以下のメール。
東日本大震災から丸10周年を迎えようとしています。
震災時にはタイの全国津々浦々からも多数の支援が寄せられました。
当方はチェンマイ県内からの寄贈物資を宮城県内の避難所へ運ぶなど致しました。
当方は当時、タイ人のこのような暖かな気持ちを日本語で被災地に寄せる機会を設けようと考え、タイ全国で日本語を学ぶタイ人高校生・大学生・元東北大留学生にバンコクに集まってもらい、「タイから日本震災被災者の皆様を励ますタイ人全国日本語スピーチ大会」(2011年7月23日)を開催し、タイから被災地へネットで生中継しました。
タイの大学13校・高校4校の学生さんたちをはじめ、震災当時に福島県内の避難所で活動したタイ人医師・看護師 及び 人権活動家のプラティープ先生からもメッセージを、バンコク・クロントイスラムに立地する小学校の生徒たちからは日本語の歌を、会場から発して頂きました。
震災10周年を機に、この模様がYoutubeで再度視聴できるようになりました。
全編で1時間40分弱あるため、約30分ずつ3動画に分けてあります。
10年前にタイから日本語で寄せられた真心は、今改めて見ても温かい気持ちになります。
よろしければ、以下からご覧ください。
「タイから日本震災被災者の皆様を励ますタイ人全国日本語スピーチ大会」(1)
「タイから日本震災被災者の皆様を励ますタイ人全国日本語スピーチ大会」(2)
「タイから日本震災被災者の皆様を励ますタイ人全国日本語スピーチ大会」(3)
在チェンマイ
海老原智治
海老原さん、タイの若者たち、ありがとう。