電力自由化を勉強しよう2

takase222012-01-19

きょうは、石巻日日新聞を訪問した。
仙台でレンタカーを借り、「情熱大陸」を作ったディレクターの板倉さんの運転で北上。1時間近く走ると、石巻の方向に、白い煙が上がっているのが見える。板倉さんが「日本製紙が操業してますね」と感慨深げに言う。復興の狼煙のようである。
近江社長とたっぷり1時間、武内報道部長とは2時間以上、お話することができた。
激減した部数はまだ回復せず現在7500、広告は震災前の半分に満たない。経済的にも困難が続く中、よくやっているなあと感心する。
しかし、近江社長には悲壮感はなく、「おらほのラジオ体操」の普及や、ロシアのサーカスを招く運動をはじめたりといろいろ仕掛けて地元を元気にしようとしている。ラジオ体操のCDを土産に買ってきた。Youtubeに動画があるのでご覧下さい。いま海外にまで広がっているそうだ。http://www.youtube.com/watch?v=GEI5LxkPi-4
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さて、電力自由化
今の地域独占の電力供給体制は先進国ではまれであり、OECDでは日本だけだという。
実は、日本でもこの「発送配電一体」体制がはじめからあったわけではない。
日本の電力史は、明治16年(1883年)、日本初の電力会社「東京電燈」(後に東電へとつながる)の設立にはじまる。
エジソン白熱電球の実用化に成功したのが1879年だから、普及のスピードは驚異的だ。
電源はもっぱら水力。といっても、ダムができるのはずっと後のことで、当時は、水路で高度差を利用する「小水力発電」だった。
当初、電燈を持つ施設はごく限られていたが、産業化の波のなか、都市部では工場での動力にも電気は使われるようになる。一方、地方でも資産家や篤志家が資本を出し合って次々に電力会社ができる。明治28年(1895年)の京都市を皮切りに、路面電車を運営する自治体も現れた。
はじめは需要も供給も小出力で、地産地消が基本だったが、明治40年(1907年)、「東京電燈」が山梨県に本格的な大水力発電所、駒橋発電所を稼働させ、東京の早稲田変電所までの長距離送電を開始し、大水力発電が指向されていく。
この年、明治40年の電力会社の数は、全国で100社以上。つづく大正時代に爆発的に増え、昭和7年には800社以上もが乱立、激しい競争が繰り広げられた。「電力戦争」と呼ばれ、電気料金のダンピング、企業買収などで多くの会社が淘汰されていった。
つまり、電気は、黎明期からずっと、他の商品と同じように、自由に売り買いされてきたのである。
この状況を変えたのは、戦争だった。
昭和13年(1938年)、戦時体制を構築するため、第一次近衛内閣は「国家総動員法」とともに「電力国家統制法」を成立させ、国家による電力の一元統制を図った。
日本国内の発電・送電施設はすべて「日本発送電株式会社」(日発)という国策会社の管理下におかれた。このときには配電には手をつけなかったが、太平洋戦争直前の昭和16年(1941年)に「配電統制令」が施行され、全国の配電事業者が会社を解散させられ、あらたに全国9ブロックに一つづつ配電会社が設立された。こうして、「日本発送電」と9配電会社により戦争中の電力事業は運営されたのである。
戦後の昭和25年(1950年)、ポツダム政令により「日本発送電」は解体される。そして、その施設はすべて、地域ごとに発電、送電、配電が一体化した9つの民間電力会社に移管された。(のちに沖縄電力を入れて10社体制になった)
すなわち、「発送配電一体」の地域独占体制は、歴史的に形成された一時期のものにすぎないのである。
(つづく)