高世のルーツを訪ねて

takase222013-07-16

きょうは、取材で会津若松市に行った。
小学生のころ、修学旅行で、磐梯山五色沼猪苗代湖野口英世の家からここ会津若松の白虎隊自刃の場所をめぐった覚えがある。白虎隊の自刃の場所はもう一度行ったと思う。
記憶では、ガイドさんが白虎隊の歌を詩吟入りで熱唱した。
  戦雲暗く 陽は落ちて
  弧城に月の影悲し
  誰が吹く笛か 識らねども
  今宵名残の 白虎隊
大学の後輩に喜多方出身の男がいて、酒を飲んだときの十八番だったこともあり、覚えてしまった。
この町には特別な思いがある。
高世一族が出た土地だからだ。
高世とは会津の高瀬という集落にいた漆職人の集団で、上杉家が米沢に移封されたときに付き従ってきたという。そして出身地の地名を姓にしたのだという。(高瀬が高世になった理由は不明だ)
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090713
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20121106
まだ陽のあるうちに取材が終わったので、高瀬とはどんなところか行ってみた。会津若松の駅の西側で住所は、会津若松市神指(こうざし)町高瀬となっている。
磐梯山がすぐ近くに見える。青々とした田んぼがひろがる中に、土地の人が城跡と呼ぶ森があり、そこに大きなケヤキがあった。(写真)
ネットの解説によると、この木は会津の名物の一つ「高瀬の大木」で、幹の周囲が11.7メートル。1941年に国指定天然記念物になっているという。
ケヤキのそばには土塁が延びている。
豊臣秀吉が天下を統一したのち、越後を中心に大きな勢力を有していた上杉景勝(謙信の後継者)は、秀吉の命により会津移封となり、120万石という大領地を与えられた。
 秀吉に従順の意を示し、家康には好意を抱いていなかった景勝は、来るべき家康との合戦に備えて、神指城(こうざしじょう)の築城を急いだ。案内板によれば、家老直江兼続の指揮の下に12万人の人夫を動員、昼夜を分かたぬ工事だった。
 ところが、関ヶ原の合戦で西軍方が敗れ、天下の大勢を察知した景勝は途中で築城を中止した。その土塁の跡が、ここなのである。
 大ケヤキは、当時すでにかなりの大木だったという。本当に戦争のための城の土塁ならば、木が生えていては具合が悪いと思うのだが、なぜ伐採されなかったのだろうか。あるいは、工事を中止せざるを得ないことを、当初から予感していたのだろうか。想像はつきないが、とにかく、ケヤキは残った。
 それにしても太い幹である。昭和24年(1949)の台風で大枝が折れてしまったが、いまなお樹勢は良い。
 会津盆地No.1の巨木と言っていいのではなかろうか。》http://www.hitozato-kyoboku.com/takase-taiboku.htm
樹齢500年というから、ご先祖が米沢藩に移ってくる前もすでに大木
だったのだろう。
このあたりでの人々の暮しを想像すると、一帯の風景が愛おしく見えてくる。