横田滋さんの逝去によせて-覚悟の実名公表

 恐れていたことが起きた。
 横田滋さんが亡くなった。

https://www.asahi.com/articles/ASN656DSRN65UTIL03G.html

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  2年前の入院から、だんだん弱っておられると聞いていたので心配していたのだが。

 申し訳ないと思う。
 国民の一人として、また拉致問題の報道に深く関わったものとして。
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 振り返れば、北朝鮮による日本人拉致が国内だけでなく国際的にも周知され、救出への機運が高まり、被害者の5人とその家族を取り戻すことができたのは、滋さんの決断と見識によるところが大きかった。

 拉致問題の転機は、1997年の2月3日の月曜日だった。衆議院予算委員会西村真悟議員が橋本龍太郎首相に質問をし、『産経新聞』と朝日新聞の週刊誌『アエラ』が、横田めぐみさんの写真入りで拉致疑惑を大きく報じたのだった。これが北朝鮮による拉致被害者が、実名で全国に報じられた最初である。

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産経新聞1997年2月3日朝刊1面

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アエラ」1997年2月10日号(2月3日発売、店頭には2日から並んでいた)長谷川煕記者の記事

 この実名公表は、覚悟の決断だったと、滋さんは言う。

 《平成9年(1997年)1月下旬、韓国に亡命した元北朝鮮工作員の証言から、「めぐみは北朝鮮工作員に拉致され、平壌で暮らしている」との情報が入りました。
「生きていたのか」と暗闇の中で明かりを見たような喜びが湧いてきました。しかし、冷静になると「本当に無事に帰って来れるのか」と新しい悩みが出てきました。直ちにマスコミが取材にやってきましたが、家族にとってはめぐみの実名と写真を明らかにするかどうかの問題が浮上してきました。実名を出さなければ事件の信憑性が問われる一方、実名を出すと北朝鮮がそうした事実がなかった事にするため殺してしまう恐れがあります。家族の中でも意見が分かれましたが、「日本はこれだけの情報を持っていると事実を公表する方が被害者の安全がはかられる」と判断し、リスクを覚悟の上、実名の公表に踏み切りました》(拙著『拉致―北朝鮮の国家犯罪』講談社文庫の横田滋さんのまえがき)

 実名を出すことには、早紀江さんも、めぐみさんの双子の弟、拓也さん、哲也さんもみな大反対だった。滋さんは、実名を出さなければ何も動かないとの思いから、家族の反対を押し切って、めぐみさんの実名公表を決断したのだった。

 ここから事態は動き出した。

 新潟に「救出する会」ができ、3月25日には、それまで各地で孤立していた拉致被害者家族たちが「家族連絡会」を結成、「北朝鮮に対し、断固たる態度で、身柄の返還を要求していただきたい」と政府に声を上げた。

 急激な世論の盛り上がりもあって政府は5月、北朝鮮による拉致疑惑事例として「7件10人(および拉致未遂1件)」と正式に認定することになる。

 

 滋さんは「家族連絡会」の代表として適任だったと思う。

 拉致という残酷な犯罪の犠牲者家族としては、感情的になっても不思議ではない。ヘイトに流れてもおかしくない運動に良識の筋を通し、在日朝鮮人への非難をたしなめた。北朝鮮の当局と民衆を区別し、民衆は自分たちと同じ、人権侵害の被害者だとのスタンスを崩さなかった。

 政府要人や政治家、支援者ら被害者救出運動にかかわる個人、団体への批判を公開の場で漏らすことはなかった。

 政府が本気で拉致問題に取り組んでいるとはとても思えないときにも、その不満は胸のうちにしまいこんでいた。メディアからの思慮のない質問にも怒らず丁寧に答えていてよく我慢できるものだと感心させられた。

 「家族連絡会」には次第に大きな金額の寄付も集まるようになったが、滋さんは金銭の管理に手を抜かず、いつも領収書を確認しながらきちんと経理ノートを付けていた。

 横田夫妻とテレビのスタジオに一緒に出演したとき、テレビ局までの交通費を自腹で払っていることを知って驚いた。どうしてですかと尋ねると、「自分の娘のことをお願いする立場だから」と滋さん。

 これは「活動」なのだから、「家族連絡会」の活動費で出すべきですよと、私が強く説得したことがある。それほどお金にはきれいで、活動費の使途不明金騒ぎが起きた「救う会」などの金銭管理のルーズさとは無縁だった。

 救出運動は、誠実そのものの滋さんと早紀江さんが先頭に立ったことで、国民から広く信頼されるようになったと言えるだろう。
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 滋さんとはじめてお会いしたのは、1997年の2月6日。夜8時半に自宅を訪問した。

 そのとき私はお二人に、めぐみさんらしい日本女性を北朝鮮工作員養成所で見たことがあると語る元北朝鮮工作員の取材動画をお見せした。これが初めての「めぐみさん目撃証言」だった。

 この目撃証言は2月8日(土)、テレビ朝日の報道番組『ザ・スクープ』で報じられ、社会に大きな衝撃を与えた。各方面からのリアクションもすさまじく、取材した私たちを、韓国の諜報機関に踊らされたバカどもと罵倒する人々もいた。

 誤解もされているので、この機会に「目撃証言」の顛末について記しておこう。

 私はこれに今でも不思議な運命を感じている。

 当時、「日本電波ニュース社」の報道部長だった私は、2月4日(火)にソウルで安明進(アンミョンジン)という元北朝鮮工作員をインタビューする予定で、3日(月)15時50分成田空港発の便を予約していた。

 インタビューの目的は、もちろん拉致問題ではなく、東南アジアで起きた偽ドル事件の継続取材だった。

 3日昼過ぎ、NディレクターとMカメラマンと3人で成田空港に行った。出発まで時間があったので、新聞を買おうと、空港の売店をのぞいた。すると―

 「サンケイ朝刊一面で、横田めぐみさんの20年前の失踪が、実は北朝鮮への拉致ではないかとの記事が出る。きょう発売のアエラも特集。あす安明進にぶつけようと意気込む」(私の2月3日の日記より)

 何というめぐりあわせだろう。
 空港の待ち時間で、めぐみさんの写真入りの記事が載った「産経」と「アエラ」が目に入り、その二つを購入して私たちはソウルに向かうことになったのである。

 そして翌4日の午後、私たちが待ち受けるホテルの部屋に、安明進氏が入ってきた。
 さっそく前日に成田で買ってきた「産経新聞」と「アエラ」を見せる。

 安氏はしばらく記事に掲載されているめぐみさんの写真を見ていた。

 そして「この女性には見覚えがあります」と言い切ったのだった。

(つづく)