家族会(拉致被害者家族連絡会)の代表を11日に退いたばかりでの訃報に驚いた。体調がよくないことが退任の理由だったが、よほど悪かったのだろう。
心身ともに強い負荷のかかる役目を横田滋さんから引き継いで、83歳の高齢まで14年もつとめた。任期中、目に見える形での拉致問題の進展がなく、妹の田口八重子さんについても新たな情報がほとんど出てこなかったことは心残りだったろう。申し訳ないと思う。ごくろうさまでした。心よりご冥福をお祈りします。
(朝日朝刊19日付)
飯塚繁雄さんは、拉致被害者、田口八重子さん(拉致当時22)の長兄で、私と仲間たちは何度も取材させてもらった。いろいろな思い出がある。
ご自宅にうかがったある時のこと、繁雄さんは、帰国した蓮池薫さんから得た情報を細かくメモした手帳を取り出して、「これは、あまり外に出してないだけどね」と言いながら私に見せてくれた。薫さん手書きの地図もあった。
拉致事件の核心に迫る情報に驚いた私は、そこから仲間と取材を進め、独自に当時はけっこう高かった衛星写真を購入して位置を探し、八重子さんはじめ横田めぐみさんや蓮池、地村夫妻などが一緒にいた招待所の場所を突き止めることができた。
これは2006年4月の日テレ「バンキシャ」で放送された。かなりのスクープだったと思うが、こういう情報は、その後の日本政府のインテリジェンスに生かされているのだろうか。
飯塚繁雄さんの妹、八重子さんは1978年に失踪したあと、1987年に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キムヒョンヒ)に日本人化教育をした李恩恵(リウネ)の可能性が高いとされた。
警察が李恩恵の身元判明を発表したのが1991年。一般向けの発表では匿名だったが、マスコミは警察から「田口八重子」の名前を知り、繁雄さんだけでなく兄弟姉妹の家や脳卒中で入院中の母親のもとにまで押しかけた。
そのすさまじさを繁雄さんは『妹よ~北朝鮮に拉致された八重子救出をめざして』という著書にこう書いている。
《夜中でも朝でもおかまいなしに、「飯塚さーん、〇〇について聞かせてくださーい」と大声を出し、戸を叩くのです。
うちが戸を開けないでいると、今度は隣を起こし、「お隣さんは実はこうなんですが、何か聞いてますか」などと聞き回られました。》(P104)
雑誌には興味本位の記事があふれ、嫌がらせの電話もきた。「家族みなが裏で北朝鮮とつながっているのでは」などと心無い噂を立てられたりもした。
こうしたつらい体験を経て、繁雄さんは家族、とくに子どもたちを守るため、八重子さんについては一切沈黙することにしたという。家族のあいだでも北朝鮮、拉致などの話題を避けるという徹底ぶりだったようだ。1997年に横田さんたちが家族会を立ち上げ、行動を起こしたときにも、繁雄さんは参加していない。
転機は2002年の小泉訪朝だった。9月17日、家族会は飯倉公館で平壌からの情報を待っていたが、繁雄さんはふつうに会社に出勤し定時まで働いて帰途についた。そのとき外務省から携帯に電話があり、男性の声でいきなり「お気の毒ですが、妹さんは亡くなってます」と言われた。実感のわかない複雑な気持ちで帰宅すると、奥さんが繁雄さんの顔を見るなり、泣き崩れたという。
政府が当時、北朝鮮の言い分を確認することなく、そのまま鵜呑みにし、「事実」として、横田さんや有本さんら家族会の人々に伝えたことが後に大きな批判を浴びるが、飯塚家に対しても同じだった。さらに酷いことに、繁雄さんには面会もせず、電話一本で「亡くなってます」と一言伝えただけだった。
翌日、繁雄さんは詳しい情報を聞くため、会社には「私用で休む」と断って外務省を訪ねている。男性と女性の二人が現れ、男性が無表情で「田口八重子さんは、残念ながらお亡くなりになりました」と断言した。繁雄さんは次の言葉を待ったが、その男性は何もしゃべらず5分くらい沈黙していたという。繁雄さんはあきれ果ててそのまま帰ってきた。すでに北朝鮮が提示していた死亡年月日さえ、教えてくれなかった。
当たり前の人間の気持ちすら持ちあわせていないような政府の対応に、繁雄さんは黙っていられなくなった。繁雄さんは、ここで一つの決心をする。それまで八重子さんの息子で、自分が引き取って育ててきた耕一郎さんや他の家族を守るために沈黙を守ってきたが、このままでは何も進まない。「李恩恵とされる日本人女性」や「T.Yさん」ではだめだ。八重子さんの実名を出してどうどうと救出を訴えようと決めたのだった。
これは横田滋さんが、めぐみさんの実名を挙げて活動し始めた気持ちに重なる。繁雄さんにとっては大きな決断だった。
こうして繁雄さんは9月26日の記者会見で初めて拉致について語ることになる。
(つづく)
次回からは、意外に知られていない八重子さんの拉致について書いていきます。