おまえの破産の話がニュースになってるぞと知らされ、ネットを見ると、ほんとだ・・。
破産申し立てをしたのは2ヵ月近く前だったが、コロナで裁判所が動かず、だいぶ遅れて破産開始決定になった。こちらは「まな板の鯉」で、早くやってほしいが、手続きが終わるまでこれから3ヵ月近くかかりそうだ。もっとも、生死にかかわるような重大事ではないので、ご心配なきよう。
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この連載では、拉致問題の動きを決定づけた、被害者側の二つの決断を取り上げてきた。
1997年1月の横田滋さんによる「めぐみさん実名公表」の決断、そして2002年10月の蓮池薫さんによる「北朝鮮に戻らない」決断だ。
きょう紹介するのは、横田滋さんが、何年も悩みぬいた末に下したもう一つの決断である。
横田家の引き出しに、大切にしまってある写真がある。
滋さんと早紀江さんは、折に触れそれを取り出してはあの時のことを思い起こしていた。苦しみばかりに見える二人の人生にも、忘れられぬすばらしい思い出があったのだ。
2014年3月、横田さん夫妻はモンゴルで、めぐみさんの娘で「孫」にあたるウンギョンさんとその夫、二人の間に生まれた10ヵ月の「ひ孫」と会い、同じ建物で3日間を過ごした。
それがどれほどの喜びだったかは、帰国後の記者会見での夫妻の表情を見ればわかる。
「めぐみちゃんの若い頃を、私たちは見られなかったんですけど、若いときのめぐみの感じによく似てるなあと感じることが多かったし、赤ちゃんも思いがけなく大きく育っていて元気で、ニコニコして奇声を上げながら笑いかけてくれて、夢のような、長いこと願っていたことを実現したと、私たちにとっても奇跡的な日だったと思っています。希望していたことがかなえられたことが本当にうれしくて、肉親として、祖父母と孫として会いたいと思っていたことが、静かに実現したことが、私たちには喜ばしいことであり、不思議な瞬間で、一つ一つが感動しながら過ごした日々でした」(早紀江さん)
https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/16/north-korea-abductees_n_4976862.html
金恩慶(キム・ウンギョン)さんは1987年9月、めぐみさんと夫、金英男氏(高校生だった1978年に韓国の海岸から拉致された)の長女として生まれた。08年11月、金日成総合大学コンピューター科卒業。09年8月、国家科学院発明指導局研究生。11年5月、23歳で結婚し、13年5月、長女を出産している。
ウンギョンさんによれば、子どものころ、めぐみさんが絵本を読み聞かせたとき日本語も教えてくれたので、母は在日の帰国者(注)だと思っていた。母のめぐみさんが拉致被害者だと知ったのは02年の小泉訪朝の時だったという。
(注:1959年から84年まで、在日朝鮮人の「帰還事業」として日本国籍者の家族を含む9万3千人が北朝鮮に集団移住し、その後日本との往来はできないままになっている)
夫は大学の同級生で1歳年上。交際一年後にウンギョンさんが拉致被害者の娘であることを告白したさい、同席した父が「あなたの将来のためによくない。それでもいいのか」と言うと彼は「ずっと愛します」と答えたという。
滋さんもウンギョンさんの夫と会って安心したようだ。
「ご主人もウンギョンさんも金日成総合大学という、北朝鮮ではいちばんいいと言われている大学を出て、2人ともコンピューター学科の先輩、後輩で、自宅から歩いて10分ぐらいのところに勤めていると聞きました。赤ちゃんすぐ抱いてくれたりしますので、やさしい良い人と結婚できたということでうれしく思っています」(会見で)
ウンギョンさんは母が日本人と知ってから日本語を学び、夫は高校、大学と日本語を学んでいて、横田夫妻とウンギョンさんの話を翻訳することができた。最終日の夕食は、通訳が同席することなく、家族水入らずで過ごしたという。
横田さん夫妻は、まさに夢のような楽しい時間をもつことができたのだった。
横田さん夫妻が孫娘に会うまでには、その存在が判明して実に12年近い年月が経っていた。それはなぜか。
めぐみさんの娘、ウンギョンさんの存在が分かったのは、2002年9月17日の小泉訪朝のときで、横田さん夫妻は翌日、外務省から知らされた。
当時15歳で名前は「ヘギョン」だという。(のちに本名はウンギョンと判明)
9月19日、外務省の平松賢司・北東アジア課長から電話で「めぐみさんの娘さんと言われている子どもにお会いになりますか」と聞かれ、滋さんは「会いたい」と答えている。
10月1日、「ヘギョン」さんの血液を政府調査団が持ち帰り、DND鑑定でめぐみさんの娘と確認された。
10月15日、「ヘギョン」さんは、順安空港で、帰国する5人の拉致被害者を見送っている。蓮池さんたちは、彼女と涙の別れをしたと語っている。
彼女が空港に来たのは「おじいさん、おばあさんも来てるかな」と思ったからだった。会えなかったことに、「ヘギョン」さんは失望したという。
早紀江さんは、その少女の写真をみて「めぐみがいなくなったころの年頃でもあったので、まるで探し続けた娘の姿を見るようでした」と振り返る。(『私とめぐみの35年』)
その後、日本のテレビで「ヘギョン」さんのインタビューが流れた。彼女は「おじいさん、おばあさんにとても会いたい。こちら(北朝鮮)に来てください」と横田さん夫妻を誘っていた。
めぐみさんが「死亡」とされながら突如現れためぐみさんの娘。
横田さん夫妻ともに、すぐに孫娘に会いたいという気持ちは強かった。しかし、当時の政治的な事情でその願いはかなわなかった。支援団体「救う会」が、「会えばお母さんは亡くなったと言わされる」と反対したからだ。
私も当時、横田さん夫妻が北朝鮮に行って「ヘギョン」さんに会うことには反対した一人だった。
横田さん夫妻は「ヘギョン」さんと会うことを封印した。
《かわいい娘ですから、すぐにでも飛んでいって抱きしめてあげたい。主人も会いたい気持ちを抑えきれずにいましたが、二人で北朝鮮へ行けば、ヘギョンちゃんも政府に利用され、あの国の謀略に乗せられることになります。もし、ヘギョンちゃんが「お母さんは死にました」と私たちに言えば、主人は「こんな可愛い子をおいて亡くなって」と抱きしめ、泣いてしまうでしょう。そんな映像がニュースで流れれば、「めぐみの死」を認めることになり、娘を取り戻すことはできなくなります。何をされるかわからない怖さがあるので、私たちは会いたい気持ちを堪えて遠くから見守ることにしました》(横田早紀江『私とめぐみの35年』P151-152)
二人はながく公の場では、肉親としての感情を隠してきた。
しかし、拉致問題がまったく進展を見せないまま、時間だけが過ぎていく。高齢になり、体調を崩すことも増えてきた。
いま会っておかなければ・・・
滋さんがある決断を下す。
その決断が、日朝の水面下での交渉を促し、2014年3月のモンゴルでの面会実現、そして5月のストックホルム合意をもたらすのである。
2013年10月のことだった。
(つづく)