一所懸命に生きたら幸福になれるはず?

 日曜だが出社。駅まで娘と歩く。近所の紅梅の蕾がほころんでいた。せわしかったりトラブルや心配事があると、身の回りの自然の移ろいを見過ごしがちになるので、気をつけるようにしている。空気は冷たいが、陽に当たる梅の花は心を和ませてくれる。
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 「一所懸命に生きたら幸福になれる」。これに「べき」や「はず」をつけて、「幸福になれるべき」「幸福になれるはず」、私たちはこう思いがちだ。これに似た、「努力すれば必ず夢はかなう」(べき、はず)というのはかなりひんぱんに耳にする。いったいどうなのか。
 かっこいいフレーズではあるが、ちょっと考えれば、これらが非合理的な思い込みであることはすぐわかる。まず大原則として、世界は「私」を中心に回っているわけではなく、世の中は自分の思いどおりにはならない。これは大人になればわきまえるべき道理である。また、主観的にがんばっていると思っていても、やり方が不適切だったら、当然よい結果は生まない。さらに、世の中を見回せば、一所懸命に生きても幸福になれない人、必死に努力しても夢が叶わない人がたくさんいる。結論として、どこから見ても非合理的な思い込みなのである。
 「べき」「はず」「必ず」となると、絶対失敗できない、失敗したら人生おしまい、と自分を追い詰めることになり、結果、落ち込んでしまう。さらに、真面目な人ほど、「こんなに一所懸命生きているのに幸せになれないなんて、世の中間違ってる」となり、「うつ」や怒りにつながって、人生にとって役に立たない。
 そこで、人生哲学としては、「あるべき思考」を「なるべく思考」に換える。
 あの大学に必ず合格するはず、絶対に金メダルを取るべき、というのではなく、精一杯努力してあの大学に合格したいものだ、合格できるといいなあ、と考える。もし失敗しても、残念だったが、これで人生お終いじゃないと思う。
 さらに、失敗したのは、やり方が適切でなかったかもしれないと反省して、より適切な方法を試していく。こうした前向きの努力によって、必ず成功すると保証できないが、成功する確率は増えるだろう。
 「この世には、私にとって不都合なことはあっても、不条理はない」のであって、「この世は不都合なところや嫌なところもあるが、適切な努力をしたら、そこそこの幸福、あるいはそれを得る機会を与えてくれる場である」くらいに考えるのが合理的なようである。
(つづく)
 以上の内容は、私の人生の師である岡野守也先生のセラピーで学び『サングラハ』第160号「唯識と論理療法を融合的に学ぶ」より一部引用した