原発とジャングル3

 きょうは暑いなか浅草の仲見世に行く。海外取材に出る人が協力者に謝礼であげるお土産を買うためだ。

f:id:takase22:20190621112855j:plain

仲見世通り

 レンタル浴衣を着てそぞろ歩きする外国人と修学旅行の生徒が目立つ。

    宝蔵門(仁王門)にかけられた大わらじ。山形県村山市で作られたものだと初めて知った。

f:id:takase22:20190621120036j:plain

 太平洋戦争が始まった1941年以来、10年に一度あらたに作って奉納する。これが8代目で、去年10月に奉納されたものだそうだ。2トン半の藁を使いのべ800人が1ヶ月かかって作るという。ごくろうさまです。
 写真家の鬼海弘雄さんが浅草で撮る肖像写真の背景は朱色の壁だが、きっとこの宝蔵門の側面だなと思いながらぐるっと回ってきた。
・・・・・・・・・・・・
 最近、無理にがんばらないという考え方が「いいな」と思う。
 グレートジャーニーの探検家、関野吉晴さんの連載「語る―人生の贈りもの」が朝日新聞で始まったがその連載1回目(18日付)にこんな文章が載っている。
 《旅や冒険の醍醐味は「気づき」。自分が普遍的だと思っていることが、実は他の人にとっては特殊なことだと分かる。そうすると物の見方が変わり、自分が変わることがおもしろいんです。》
 《エチオピアでは、ヤギやラクダを飼っている人に「もっとたくさん増えたらいいですね」と声をかけたら「いや、これを大切に育てるのが私たちの役目です」と言われた。足るを知る人たちなんですね。いま、「好きな言葉を書いて」と言われると、自戒を込めて「ほどほどに」と書いています》

 関野さんが「ほどほどに」と本に献辞を書いているのを実際に見たことがあるからこれはほんとの話。

 次は山本太郎参議院議員
 《僕が目指す社会は、究極は、頑張らなくても生きていける世の中です。もう、「これトチったら俺の人生終わりだな」みたいな世の中はやめにしたいんですよね。そういう状態が続く人生は地獄ですよね。「まぁいいか」みたいな余裕が欲しい。
 何をもって頑張るかは個人差があるので、それを測るのは難しい。でも、頑張れない時に頑張ってもロクなことがないから、ゆっくり休んで、それを国が支えて、そろそろ力が湧いてきたという時に頑張ってもらう方が、ずっと生産性は高いですよ。だって、無理しても壊れるだけだもん。
 だから、「いいよ、頑張らなくても」という世の中になればどんだけいいか。今はあまりにも地獄すぎると思うんです》(山本太郎『僕にもできた!国会議員』筑摩書房
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019061500001.html?page=2
・・・・・・・・・・・・・
 「原発とジャングル」について書きっぱなしで(いつものように)失礼しました。続きです。https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/05/07
 ブラジル・アマゾナス州南部のジャングルの民、ピダハンの社会が、我々が想像する「野蛮、蒙昧、悲惨」の社会ではなく、意外にも「幸福感みなぎる」「一種のユートピア」だったとエヴェレットは報告した。
https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/05/07
 渡辺京二さんはしかし、「原発がいやならジャングルへ戻れ」と言われて、我々は本当に戻れるだろうかと問う。戻れないはずである。
 《いったん「文明」を知り、その中でしか暮したことのない者が、いかにフリーでありある意味で幸せであろうとも、そのような原初状態に戻ることを望むだろうか。望むものはいまい》と渡辺京二さん。
 「狩猟採集経済以後、人類が獲得したものは物心両面においてとほうもなく巨大多様」で、我々はその獲得物を放棄できなくなっている。我々の価値観もそれをベースに形成されてしまっている。
 例えば、都会人が田舎暮らしをしたいと地方に移住することを考えてみよう。自給自足に近い暮らしを夢みる人でも、近くに病院や介護施設があるか、子どものいる人は学校があるか、交通の便はどうか、などなど最低限の利便性が前提でなければ話が進まない。
 幸福度ランキングでは重要な指標に平均寿命や識字率などが必ず入ってくる。「文明人」にとっては、医療施設がないというだけで、ジャングルの暮らしはすでに「しあわせ」ではないのである。何を「しあわせ」と感じるかがジャングルの人々とはすでに違っている。
 ただ、近代文明のなかで、こんなはずではなかったという思いは募っている。労働を省力化してくれるはずの「交通・通信・情報手段の発達が人間をより一層多忙にして来たことは、各自おのれを省みさえすれば直ちに明らかだ」。
 ただ、ジャングルの暮らしには、文明によって規定されない、人類にとって普遍的な「しあわせ」があることも確かだ。
 では、どうすればよいのか。この「ジャングルと原発」(『原発とジャングル』晶文社)で渡辺さんは、「近代文明を超克」するという彼のテーマへの最終結論とも思える主張を述べている。
 《問題は、物質文明=科学技術の進展は不可避な自然過程かどうかということだ。マルクスはそう考えたし、吉本(隆明)氏はその点において全くのマルクス派である。自らを省みて、その点が私は違うと思う。マルクス・吉本がそう考えるのも無理はないと認めつつ、私はそうは思わないとあえて言いたい。文明の賜物を保持しつつ、ピダハンのような管理と支配のないフリーな共同社会をめざすことはできると思う。できると思うのは私が根が夢想家だからである。必然のワナから自覚的に抜け出せるのではなくては、人間に生まれた甲斐がないと思うからである。》
 《望ましい文明の見取り図なら、掃いて棄てるほどあるのだ。しかし、それを実現する手続き、いやそれ以上に心構えこそ問題なのだ。(略)つまりはおのれの霊的自覚の問題になるのかも知れない。》
 《自然過程とは詮じつめると、文明的諸装置の出現・進化は必然であり、いったん獲得した文明的利便は放棄できないということだろう。しかし、原発というエネルギー発生装置が出現したのは人類史の必然=自然過程だったとしても、放射性物質を他のエネルギー源に替えることはわれわれ人間の自由な選択に属する。
 自然過程という「物神」を素直に承認したくない。戦後の凡庸思想家、いや思想家などおこがましい一独学者である私の、これが最後の一句だ。》
 平たく言うと、まずは一人ひとりの深い自覚だということだろう。