3年前、安田純平さんが解放される方法を探しに、ポーランドのクラクフに行ったことを書いた。https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/03/24/
あの街は実に美しかったなと今になって思う。クラクフはポーランドの古都で、14世紀以降大いに栄え、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまでポーランド王国の都でありつづけた。
ヴィスワ川を見下ろす小高い丘に「ヴァヴェル城」がある。対岸から城を眺めながらコーヒーを飲んだ。
《政府は28日、学校を長期欠席している子どもが虐待を受けていないか、緊急調査をした結果を公表した。教員らが面会をしたうえで、「虐待の恐れがある」と判断し、児童相談所や警察と情報共有をした子どもが2656人、面会ができず、「虐待の可能性が否定できない」として情報を共有した子どもが9889人に上った。》(3月29日朝日新聞)
陰惨な幼児虐待事件に心を痛めたであろう人が詠んだ歌が、31日(日)の朝日歌壇に入選した。
なかつたらうマンモスを狩る男らが弱き子供を虐ぐるとは(我孫子市 島津康右)
なるほど。氷河期までさかのぼるとは、すごい想像力だが、150年前の日本でも子どもの虐待はほとんど見られなかったようだ。明治初期に来日した外国人が、こぞって日本は子どもの楽園だと讃える声を紹介してきた。https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/02/28/
当時、日本の子どもが親に可愛がられるさまを外国人たちは驚きの目で見ていた。
「まだしゃんと立てないうちは、母親の背中にあるその王座を去ることはめったにない」そして立てるようになっても「まだ母親の乳房は捨てない」。(ネットー=明治6年~18年お雇い外国人として在日)
「日本の子どもは三歳ないし四歳になるまで完全には乳離れしない」(アリス・ベーコン=明治21年華族女学校の教師として来日した米人)。
こうなると甘やかされてわがまま放題に育ってしまうのでは?
実際は逆で、来日外国人たちは、日本の子どもたちの、親や年上の者への恭順、礼儀正しさや落ち着きぶりにも感銘を受けている。
まず、子どもが母親の背から降りて最初にすることは子守りだった。
「日本の子供は歩けるようになるとすぐに、弟や妹を背負うことをおぼえる。・・・彼らはこういういでたちで遊び、走り、散歩し、お使いにゆく」(ブスケ=明治5年から司法省顧問として在日した仏人)
「背負っている方の子供が、背負われている子供に比べてあまり大きくないこともある」(ネットー)
維新前の1859年(安政6年)から神奈川でオランダ副領事だったポルスブルックは、毎週3回、中庭を開けて漁師の子どもたちを遊ばせてやったりおもちゃを貸してやった。
「私は、あんなに行儀よくしつけの良い子供達は見たことがない。子供達は喧嘩したり叫んだりすることなくおとなしく遊び、帰る時間になるとおもちゃをきちんと片づけて、何度も丁寧に御礼を言って帰るのだ」。
行儀の良さについては、モース(明治10年に来日し東京大学で教鞭をとり、大森貝塚を発見した生物学者)は東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。
あるとき、モースは家の料理番の女の子とその遊び仲間の二人を連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭づつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊(ざる)に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭づつ落とし入れたという。
イザベラ・バード(明治11年来日した英国女性で、東北地方から北海道まで通訳一人だけをつけて旅をした)はいつも菓子を用意していて子どもたちに与えたが、「彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいな」かった。許しを得るとにっこりと頭を下げ、他の子どもにも分けてやったという。
手放しの愛情は子どもをスポイルするものだと考えていた欧米人には、理解しがたいことだった。(『逝きし世の面影』P396~416より)
(つづく)