中東の旅から
古城をのぞむ通りのカフェ。週日昼間からゆったりと紅茶を飲んでお喋りをする人々がいる。通りかかると一杯飲んでいけと椅子を勧められ、腰を下ろした。誘った青年は英語もまったく話さず、ニコニコしているだけ。お代を払おうとすると「とんでもない」と断わられおごってもらうことに。人の親切にうれしくなる。
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《国連の子供の権利委員会は7日、1月中旬に実施した対日審査の結果を受け、日本政府への勧告を公表した。委員会は日本で子供への虐待などの暴力が高い頻度で報告されていることに懸念を示し、政府に対策強化を求めた。虐待などの事案の調査と、加害者の厳格な刑事責任追及を要請した。
7日に記者会見した子供の権利委員会のサンドバルグ委員は、千葉県野田市立小4年の女児が死亡して両親が逮捕された事件について「起きてはならない残念な事件だった。誰か大人が反応すべきだった」と述べ、日本社会全体で向き合うべきだと指摘した。
勧告は、子供でも虐待被害の訴えや報告が可能な制度創設が急務だと指摘。虐待防止に向けた包括的な戦略策定のため、子供も含めた教育プログラムを強化するように要請した。
対日審査は2010年以来で、日本政府による子供の権利条約の履行状況を点検するのが目的。勧告に法的拘束力はない。》(ジュネーブ共同)
児童虐待は日本の「伝統」なのか。
いや、明治期までは日本は子どもの楽園とみなされていたのだ。
「子どもの楽園」とは、江戸末期から明治初期に日本を訪れた欧米人に愛用された言葉だという。(以下、渡辺京二『逝きし世の面影』より)
明治10年に来日し東京大学で教鞭をとり、大森貝塚を発見した生物学者モースの評。
「モースは言う。『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供は朝から晩まで幸福であるらしい』」(P390)
前回、かつての日本では通りが人々の暮らしの場だったことに触れたが、そこは子どもたちにとっても「共有地」(コモンズ)だった。
「1873(明治6)年から85年までいわゆるお雇い外国人として在日したネットー」はこう描写する。
「子供たちの主たる運動場は街上(まちなか)である。・・・子供は交通のことなどすこしも構わずに、その遊びに没頭する。かれらは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、紙鳶(たこ)の糸をみだしたりしないために、すこしの迂り道はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者(うまののりて)や馭者を絶望させうるような落着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」(P388)
今から100年少し前のわが国では、子どもたちは虐待されるどころか、驚くほどの自由を享受していたというのだ。いったいどういうことなのか。
(つづく)