安田純平さんの解放に身代金は支払われたのか?(7)

 近所の畑でスイセンが咲き始めた。

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 コブシは満開だ。

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 寄り添うと答えるだけの官邸と言わず寄り添う陛下の想い (三鷹市 山縣駿介)

 今朝の朝日歌壇の佳作だ。皇室は本来はあまり政治的な話題に出てこないほうが望ましいのだろうが、こう言いたくなる気持ちはよくわかる。官邸に完全に欠落している沖縄に対する誠実さを、今上天皇と皇后が身を持って示している。少なくともそう見える。
 天皇は沖縄について懸命に学び、琉球語で「琉歌」(8・8・8・6の音節の短詩)を詠めるほどになった。以下は「摩文仁」(まぶに=沖縄戦終局の地)と題する「琉歌」。
 ふさかいゆる木草(きくさ)めぐる戦跡(いくさあと)くり返し返し思ひかけて
 「ふさかいゆる」というのは、ふさふさと繁っているさまを意味する古い表現だそうだ。https://takase.hatenablog.jp/entry/20180331

 天皇の沖縄に対する想いは並大抵のものではなかったようだ。
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 2016年4月、私はブログでポーランドのジャーナリスト、マルチン・マモン氏について書いている。マルチンは2015年11月、友人のトマシュ・グウォヴァツキ氏とともにシリアで反政府武装勢力「ヌスラ戦線」に拘束され、約40日後のクリスマスに解放されていた。https://takase.hatenablog.jp/entry/20160408


 彼らの存在を教えてくれたのは、ジャーナリストの常岡浩介さん。当時、常岡さんは身代金を払わずに安田純平さんを解放する方法を模索しており、このポーランド人のケースが参考になるはずと考えていた。

    私は安田さんとは2012年、シリア取材をテレビ番組にプロデュースして以来のお付き合いで、今回もシリアに入る前トルコにいた安田さんと連絡を取っていた。安田さんを何とか身代金なしで救出したいという思いは共有していたので、マルチンたちの事例を一緒にリサーチしたいと申し出た。
 マルチンは2005年に、チェチェンを取材した"Dirty War"(汚い戦争)という作品を作っている。常岡さんもチェチェン人部隊に命がけで従軍取材した経験があり、SNSで連絡をとるとマルチンも常岡さんに親近感をもったようで、何でも質問に答えるという。
 5月下旬、何とか日程を調整して常岡さんとポーランドに向かった。マルチンたちが住むのは古都クラクフ。実に美しい街だった。

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マルチン(右)、トマシュ(左)と

 マルチンとトマシュは、ドイツ人ジャーナリスト、ヤニーナとのいきさつから拘束、解放まで詳しく語ってくれたのだが、二人の拘束と解放の経緯だけ要約すると―

 マルチンたちは武装勢力の司令官から招待される形でシリアに入ったという。招待したのは、ハムザ・シシャーニというチェチェン人。
 シリアには、中東だけでなく、インドネシアや中国(ウイグル)など世界中からムスリム義勇兵が入っており、ISやヌスラ戦線など各派に分かれて戦闘に参加していた。中でもチェチェン人部隊は命知らずの勇猛果敢な戦いぶりでどの派からも重宝がられていたという。
 ハムザ・シシャーニは、アハラールシャムという反政府武装組織に属していた。ちなみに、安田純平さんもアハラールシャムの幹部が身柄を保証するとの約束で越境している。数ある反政府組織の中でも、当時はヌスラ戦線とならんで大きな勢力を持っていた。

    マルチンとトマシュは、国境を超えたあと、ヌスラ戦線のチェックポイントで止められ拘束された。ヌスラ戦線の人質ビジネスをやるグループに情報がもれていて待ち受けていたようだとマルチンは言う。

     2人はその後6ヵ所を転々と移動させられた。はじめはスパイ容疑の尋問があり、それが終わると、アブーハフスというヌスラ戦線の諜報活動担当幹部が拘束場所まで会いに来た 。ポーランド政府から身代金を取るために協力しろと要求され2人は同意した。その直後から待遇がよくなったという。
 拘束から1ヶ月近く経った頃、「シャリア法廷(イスラム法裁判所)の判決がまもなく出るが、判決は君たちに有利なものとなるだろう」と告げられ、その2、3日後、2人は目隠しされて車に乗せられ、トルコの国境近くで降ろされた。そこには招待したチェチェン人司令官とIHH(諜報機関と関係があるとされるトルコのNGO)スタッフ、ロシア語を話す覆面をした男がおり、翌日12月25日、トルコのアンタキヤへと送られたという。
 実は、2人を招待したハムザ・シシャーニはヌスラ戦線のシャリア法廷に、「2人は自分の客人であって、捕虜とするのは違法だ」と訴えていた。ポーランド政府との身代金交渉が始まる前に、その法廷の判決で2人の解放が決まったのだった。

    ヌスラ戦線のシャリア法廷であっても、ヌスラ戦線に不利な判決を出している。これはどういうことなのか。

    多くの反政府勢力が割拠する場所で、平時であれば政府や地方自治体が担うはずの公共サービスなどはどうなっていたのだろうか。シャリア法廷は住民の公共性に対する最低限の信頼を託された存在だったのではないか。

    この判決は、シャリア法廷がもつ公共性が、党派性をしのいだということではないかと推測する。

 マルチンたちの体験は、IS以外の反政府武装勢力がさまざまな理由で身代金なしに人質を解放してきた一つの実例として参考になった。

    常岡さんは、このあと、ヌスラ戦線のシャリア法廷への提訴を模索したのだが、いくつかの事情でかなわなかった。マルチンたちの解放の経緯をもっと早く知っていれば、と悔やまれる。

     2人が解放されたあと2016年の4月、つまり常岡さんと私がポーランドを訪ねた前月、ハムザ・シシャーニは何者かに暗殺されていた。マルチンは、誘拐事件を失敗させたと彼を恨んだヌスラ戦線の報復だと信じている。

 

    このように、シリアでIS以外の武装勢力に拉致、拘束されたジャーナリストを含む外国人で、身代金なしで解放されたと推測されるケースもある。

     安田純平さんが解放された詳しい経緯はまだ解明されていないが、今後新たな情報が出てくることを期待する。

(終)