山形の夏の味「だし」

takase222010-09-02

異常な暑さが続く。
夏の花で、涼しげな風情をもつといえばルリマツリだろう。この花を見ると救われた思いになる。
きのうツイッターで山形の「だし」をスーパーで買って食べたらうまかったというお便りがあり、この料理を思い出した。最近食べてないが、山形の夏の代表的な食べ物だ。いまや、スーパーで売ってるのか・・。
昔、ある同人誌に「だし」について書いたことがあり、その文章が残っていたのでここに再録する。

《きょうは、私の田舎山形南部の夏の料理を紹介する。とても旨いので是非作ってみて下さい。

 茹でた枝豆に1センチ角の角切りにした生のキュウリとナス(なるべく露地もの)を混ぜ、これに適当に切ったシソとミョウガを加えて和える。これでお終い。火を通すのは枝豆だけという簡単さだ。地元では「だし」という。醤油をかけてご飯にかけて食う。生ナスの青臭みが香り高いシソやミョウガと意外なハーモニーをかもしだし…とまあ講釈はいいとして、夏バテでも食が進むことうけあいだ。ビールのつまみにもよい。この「だし」には随分とご無沙汰だったのだが、今は二日に一度は必ず食い、人にも勧めている。このところ私はがぜん「田舎づいて」しまったのである。

 きっかけは、最近、読売新聞の日曜版に山形の県南の料理として「冷や汁」が紹介されていたのを読んだことだった。この料理は倹約精神で有名な上杉鷹山の時代から伝わってきた由緒正しいものらしい。私の母は、凍豆腐、打ち豆、油揚げ、糸コンニャク、ニンジンを茹で、これに干し椎茸を煮たダシを冷ましてかけていた。これも旨い。料理教室みたいになったが、話はなぜ私がその記事で「目覚めた」なのかだ。

 私は、長いこと「だし」とか「冷や汁」などというしろものを、ちゃんとした「料理」とは見なしていなかった。それが大新聞で「ヘルシー」かつ「エコロジカル」な料理として紹介されているではないか。田舎のものは何でも一段低いものという感覚が自分にも染み付いていたのだなあと改めて気づき、ショックを受けたのである。皆さんも山奥の民宿でエビの天ぷらなどがうやうやしく食卓に並び、なぜ土地のものを食わせてくれないのかと思ったことがあると思うが、あれなのだ。

 私は10年近くアジアに住んでいて、欧米や都会の価値観が田舎を侵蝕していくのを目の当たりにしていたのに、その記事で足元をすくわれたような思いになったのである。

 20数年前、東京に住み始めた時、野菜の種類があまりにも少ないのに驚いたことがある。今でこそ、中国やヨーロッパから入ってきたさまざまな新野菜がスーパーに並んでいるが、その当時は菜っ葉といえば、ホウレンソウや小松菜くらいしか売っていなかった。田舎では、ワラビ、ゼンマイなどの山菜はもとより、ウコギ、アカザ、ウルイ、ギボシ、ヤマブキ、ツルムラサキ、ヒョウ(スベリヒユ)、ノビルなど実に多彩な植物を食っていたものだ。

 もっとも、田舎の再評価が進み、ズーズー弁も笑われなくなるとともに、食用菊やオカヒジキなどが山形の農協から東京に入ってくるようになってはきたが。

 東京にはもちろん郷土料理の店がある。といっても、山形なら鯉の甘露煮か芋煮、秋田ならキリタンポと、未だにステレオタイプである。逆に言うと郷土料理なるものは、東京に認められて始めて「料理」となるのだろう。「冷や汁」などは同じ山形県でも庄内にはなく、米沢周辺の限られた地域でしか食わない。「ディスカバー田舎」を徹底させるなら、ごくローカルでマイナーな料理、土地の人が「料理」と思っていないような食い物にこそ注目したい。そんな食の探検を地平線でも聞いてみたいものだ。

 「だし」を食うことで、私も遅ればせながら「ディスカバー田舎」をやり始めた。その精神は、田舎者であると開き直り「誰がなんといっても旨いものは旨い」と宣言することに尽きる。

 結論。地方性の徹底は普遍性に通じる‥。》
(地平線通信 1998年7月)