最後の鷹匠、松原英俊さん

 先週19日、武蔵野美術大学で、すばらしい講演を聴いた。
 講演したのは、クマタカを使う日本最後の鷹匠松原英俊さん。いま、山形県天童市の田舎に住んでいる。
 彼以外にも鷹匠はいるが、より小型のオオタカハヤブサを使う、かつての殿様の狩りを受け継ぐもので、カモやキジなどを獲る。一方、東北地方には、昔から大型のクマタカで、キツネやタヌキ、ウサギを捕まえ、毛皮をとって生活の糧にする鷹狩が行なわれてきた。
 松原さんは、青森県出身で、子どもの時から自然や生き物が大好きだった。その好きさかげんは我々の常識を超えるもので、例えば、学生時代、下宿の3畳間に青大将など7匹の蛇を放し飼いにして、夏、裸で寝ていると蛇が体の上を這いまわるのが涼しくて気持ちよかったというほど。また、新聞配達の途中、車にはねられたトラネコの死体を見つけ、持ち帰って下宿で料理して美味しく食べた、など、おそらく200人はいただろう教室の学生たちを驚かせる話が次々と披露された。山登りも好きで、海外の山にも遠征しているし、日本の未踏峰に登り、キノコの新種も発見した、本格派でもある。
 そして、この松原さん、慶應ボーイだったというのだから、おもしろい。大学卒業後は、自然と関わって生きていきたいと思った。マタギは鉄砲で殺すが、自分は動物を生き物として捕まえる鷹匠がいいと、山形県にいた師匠に弟子入りを志願する。師匠からは「食っていけないぞ」と断わられ続けた。7回目に「食えなくてもいい。弟子にしてもらえるまで、近くの小学校に野宿して待ちます」と談判して「そこまでいうなら」と弟子入りが認められた。
 そこからは地獄の日々が待っていたのだが、クマタカの調教の厳しさ、むずかしさなど含め、詳しくは友人のジャーナリスト、樫田秀樹さんのFBを参照されたい。https://www.facebook.com/hideki.kashida/posts/1693626210720782

(松原さんはこのワシミミズクを入れて、クマタカイヌワシなど7頭の猛禽を飼っている)
 初めて自分のクマタタカ「加無(かぶ)号」がウサギを獲ったのは、修行を初めて4年半たった1979年2月13日だった。
 《毎日、自分の腕から飛んでいったタカが獲物を手にすることだけを何万回も夢に描いてきた。何百回もの失敗を繰り返し、いつかいつかと思っていたその夢がついに目の前で現実の光景として展開されている。
 泣いていた。ワー、ワーと叫び、雪原に立ち尽くしながらただただ泣いていた。
「あの瞬間、私は世界一幸せな人間だったと思います」
 28歳の冬だった。》

 いま松原さんは68歳。2年前、左目を事故で失明した。それでもなお、松原さんは鷹匠を続ける。講演会できっぱりとこう言った。
 《「私には最後の夢があります。それは、70、80と老いぼれて、ヨボヨボになっても、それでもなおタカをこの腕に乗せて、どんなにゆっくりでもいいから、雪の山を一歩一歩と歩いていきたい。私がずっと追いかけなければならないのは、タカと共に生きる自由なんです」
 実際、片目では山での雪の表面の起伏が分かりづらく、以前よりもゆっくりと歩くという。
 そして、今年の冬に撮れた獲物は、タヌキ1頭とウサギが2羽だけ。山に動物そのものが減っているということだが、獲物が取れなくても雪山を歩き続けることこそが自身を鷹匠足らしめている
 こんなにも自分に正直に生きる人は滅多にいない。》(樫田さんのFBより)

 話自体も感動的だったが、何より感銘を受けたのは、松原さんの眼差しの優しさだった。こんなに目がきれいな人がいたのか!そして、話しぶりの誠実なこと。すぐに松原さんという人間にすっかり惹きこまれていた。真にかっこいい人である。
 こういう人はもう二度と現れないだろう。弟子入り希望者は何人かいたが、みな覚悟が足りずに続かなかったそうだ。「狂気に近いものがないと」と松原さん。今は毛皮の需要などないから、山のガイドや農業をして年収は100万円に届いたことがないという。後継者はおらず、松原さんが亡くなったら、日本からクマタカ鷹匠はいなくなる。
 この講演会を主催したのは、グレートジャーニーの関野吉晴さんだ。最後に学生に今後の進路を考える上で贈る言葉をお願いしますと言われた松原さん。こう締めくくった。
 「私は若者に『耐えろ』と言いたい。大きな夢であるほど壁も高い。乗り越えるためには我慢して生きていく。誰のためでもなく、自らの夢のために耐えろと言いたい」。
 私は若者ではないけれど、心して聴いた。
 心が洗われるような講演会だった。勇気づけられました。

(講演が終わって学生たちに囲まれる松原さん)