樋田毅『彼は早稲田で死んだ』が大宅壮一賞を受賞

 樋田毅さんの『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

日本文学振興会HPより


 1972年11月、早稲田大学革マル派が文学部2年生の川口大三郎君を自治会室で殺害した事件とその後の闘いを描いている。

 早稲田の暴力支配と樋田さんについては、このブログでも、私のネットコラム「ニュース・パンフォーカス」でも紹介してきた。

takase.hatenablog.jp

 

 当時、同じキャンパスで革マル派と闘った「戦友」として、受賞はとても喜ばしい。おめでとうございます。

 樋田さんは朝日新聞阪神支局襲撃事件取材班のキャップとなり、『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』(岩波書店)を書いている。

 川口君と小尻知博記者という暴力で殺された二人の命を背負った苦悩は、私にはちょっと想像できない。受賞作は、古傷を自らえぐるような思いで書いたと聞いた。 

 私が書いた書評は以下。

www.sankei.com

 革マルのテロに対し、樋田さんはあくまで非暴力で対抗しようとしたが、革マル暴力部隊に襲われ、鉄パイプでめった打ちにされて重傷を負い、運動から撤退せざるをえなくなる。

 ウクライナでのロシア軍の暴力は、当時の革マルのそれとは質が違うが、今の情勢をどう考えているのか、酒でも飲みながら話を聴いてみたい。ロシア軍の暴虐に対して非暴力抵抗が可能なのか・・。

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 漫画家のくさか里樹さんが、日本に避難してきたウクライナ人向けの日本語カードを作ってツイッターで公開したとのニュース。

 

くさかさんのツイッターより


 彼女の介護をテーマにした漫画ヘルプマンはほぼ全巻読んだ。すばらしい作品に感動し、「情熱大陸」で主人公にしたいと思い、お会いしたことがある。

 高知県の田舎で子だくさんの暮らしのなか、カラオケ店で漫画の下絵を描いていると聞いた。とてもユニークで、女性としても魅力的な方だった。(こういう表現は今どき問題かな?)

 まずは「病院編」から公開され、ツイッターからダウンロードできる。大きなニーズがあるらしく、問い合わせが相次いでいるという。

 くさか里樹さん、さすが。応援します。

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 フィンランドスウェーデンNATO加盟申請へ。

NHKニュースより

 200年の中立の歴史をもち、軍縮の旗手としても知られるスウェーデン、そして野蛮な隣国からの圧力をさけるためのいわば「我慢の中立」を堅持してきたフィンランドの方針変更は時代が大きな転機を迎えたことを感じさせる。

 スウェーデンはロシアがクリミア半島を「併合」を受けて2017年には徴兵制を復活させていた。

 さらに、日本と同じ第二次大戦の敗戦国で、再軍備についても自制が求められてきたドイツが、ロシアの侵攻後、国防費1000億ユーロ(約13兆円)の緊急拠出と対空戦車などの重兵器のウクライナへの供与を決めた。

 フィンランドスウェーデンともに社会民主党政権で、首相は女性。いわばリベラル派の女性リーダーだ。いまのドイツも社会民主党緑の党自由民主党の左派リベラル政権で、ベアボック外相は緑の党出身の女性。

 「転換」がよりはっきりと印象づけられる。

 日本のリベラルの安全保障政策はどうなっているのか。

破壊される日本の対ミャンマー外交

 【おことわり】

 先日、突然本ブログがアクセスできなくなり、ご不便をおかけしました。みなさまにご心配いただき恐縮です。

 私の一部のブログ記事に関してあるところから削除要請があり、私がこれを無視したため、公開停止の措置が採られたという事情でした。トラブルは解決しましたのでご安心ください。

 ふたたびブログを公開するにあたって、執筆方針を少し変えざるをえないこともあり、タイトルも一新することにしました。題して「ジャーナルな日々」。

 以前このブログでも書きましたが、ジャーナリズムのもとはジャーナルという言葉で、語源をたどるとラテン語のdies(日という意味)になるそうです。そこから日々の記録という意味のdiaryも派生しました。Journalはdiaryより内面的なものを意味するようです。

 道端の草花のことから国際政治まで、私が出会って感じ、考えたことを記録していきます。後で読み返して、成長がたどれるように精進します。

 今後ともよろしくお願いします。

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 15日(日)の午後、渋谷で行われた、ミャンマーを熟知する2人によるトークイベント【「不完全国家」ミャンマーの行方】がすばらしかった。

 2人とは、井本勝幸・日本ミャンマー未来会議代表、NPO法人グレーター・メコン・センター副理事長と深沢淳一・読売新聞元アジア総局長で、ミャンマー危機の現状と展望を、国際NGOのリーダーとジャーナリストというそれぞれの立場から深く掘り下げてディスカッションするというもの。

 質疑応答を入れて2時間半、マスコミに載らない情報がいっぱいのディープなトークを満喫した。

 井本さんはミャンマーに遺る日本兵の遺骨を収集する活動をして各地をめぐるうち、多くの少数民族組織と信頼関係をもち、内戦の停戦仲介にも尽力するようになった。今の危機的なミャンマー情勢のなかでも出番がありそうなごく少数の日本人の一人だ。

日本ミャンマー未来会議 (teamimoto.jp)

 井本さん、深沢さんから得た、私にとって大事な情報を記録しておこう。

 まず、意外だったのが、民主派の「国民統一政府」NUG(National Unity Government of Myanmar)傘下の武装組織「国民防衛隊」PDF(People’s Defense Force)が戦場でも善戦しているという情報だ。

 クーデターのあと、ミャンマー国民は国際社会に助けを求めたが、何ら具体的な救済がなされず、犠牲者が増えるばかりの状況に、若者たちは武器をとって軍を倒すしかないと立ち上がった。
 少数民族の軍隊から軍事訓練を受けたPDFメンバーはそれぞれの故郷に帰り、いまは全土に村単位で部隊があるという。また、NUGが集めた資金で、部隊によっては良い武器も備えている。

 国軍の兵士は士気が低いうえ、国民全体が反軍なので、軍側の動きなどが筒抜けになって、地上戦ではPDFが押し気味に戦いを進めているという。

 国軍の損害は大きく兵員の数が不足、海軍を投入し慣れない地上戦で大敗北。警察さらには消防隊まで動員されているという。

 これまでもミャンマーでは少数民族武装闘争が続いてきたが、民族自治をめぐる戦いだったので、少数民族は国軍が自分たちの土地に入ってきたときだけ戦闘し、都市部まで攻撃をしかけることはなかった。ところが今回は、PDFがビルマ族の町や村でも国軍施設を襲っている。国軍にとっては大変な脅威になっているというのだ。

 NHKはじめマスコミでは、PDFは武器も手製の銃など貧弱で、国軍にやられっぱなしと報じられているが、それとはまったく違う情報だ。

 ただ、PDFが国軍を打ち負かす展開はありえないと井本さんは言う。やはり武器は質量とも国軍が圧倒しており、今もベラルーシなどからどんどん調達している。
(ちなみにミャンマーの兵器輸入もとは多い方からロシア、中国そして3位があのウクライナ

 このまま犠牲者が出続けるねじり合いが長期化する可能性が高いと見られ、どういう決着に持っていくか、日本としてもしっかり状況を見極めながら役割を果たしていかなくてはならない。

 国軍は地上戦で劣勢なので、PDFにやられた戦場にある村落を「敵」として空爆したり、村ごと焼き払うという蛮行を行っている。そのため、避難民が急激に増えている。避難民の数は、1カ月前が80万、今は100万人になっている。

 井本さんはカレン族やカヤ族などの避難民40万人が押し寄せているタイ国境で人道支援を届ける陣頭指揮をとっている。

 インドはチン州やザガイン地方からの避難民を受け入れているが、タイは避難民を国内に入れない。支援物資は人がかついで国境の川向こうに運んでいる。
タイ国境での変化は、ミャンマー国軍が派出所やポストを撤収して地上部隊がいなくなったこと。そのかわり、空爆が大変でひんぱんに防空壕に避難しているという。

(右が井本さん、左が深沢さん。上の写真、井本さんたちは日の丸にWe are watching「我々は見てるぞ」と書いて、空爆するなとアピールしている)

 1988年に軍政に対して学生が立ち上がったあと、07年にもジャーナリスト長井健司さんが殉職した大きな民主化運動があったが、いずれも1カ月ほどで流血の惨事のあと鎮圧された。

 ところが今回は1年以上たっても闘いが続いている。それはなぜか?

 この問題については井本さんも深沢さんも「愛国心」を大きな要因として挙げた

 2012年に本格化した民主化プロセス(同年1月、政治犯解放、5月アウンサンスーチー国会に初登院)を10年経験し、初めて自由を知った国民が、ミャンマーという国に誇りと愛国心を持ったのではないか、というのだ。

 かつては学生と僧侶が中心だったのに対して、今回の運動は、国民の全ての階層、全ての民族が全土で立ちあがっている。さらには国外のミャンマー人も熱心に支援を続けている。

 それは、せっかく「自分たちの国」になったミャンマーを軍による理不尽なクーデターで失ってたまるか、という意識からだというのである。深沢さんは「新愛国心」と表現した。

 なるほど!と得心するものがあった。ウクライナ国民が、ロシアへの抵抗戦争が始まってから、「ウクライナに栄光あれ!」とお互いに声を掛け合うようになっていると知って、香港の運動と同じだな、と思っていたこととつながった。

 2019年、香港では、今は禁止用語になった「光復香港 時代革命」が合言葉になったが、「光復香港」とは、よく「香港を取り戻せ」と邦訳されるが、「香港に(ふたたび)栄光あれ」に近い。

 あのとき、香港で「こんなに香港を愛していたことに気付いて自分でもびっくりしている」と語る人に何人もあった。また、香港の個人主義的な雰囲気がいやで日本に留学したというある人は、民主化運動のなかで、香港と香港人が愛おしいという気持ちを初めて持ったという。

 強い愛国心が今の粘り強い運動を支えていると知って、「愛国心」についてもっと考えてみたいと思う。

 

 ミャンマー情勢への日本の対応については、二人とも日本には「まともな外交」がないと強く批判している

 とくに、クーデターの首謀者、ミンアウンフラインと「パイプ」をもつという、日本ミャンマー協会の会長、渡邊秀央氏、息子で協会事務総長の祐介氏が、対ミャンマー外交を白紙委任されたような形になっていて、絶大な影響力を行使している現状は問題だ。

 今月あたまにも、渡辺氏はミャンマーを訪問、軍政の閣僚たち(計画財務相、商業相、投資・対外経済関係相、農業・畜産・灌漑相、労働相)と次々に会って「日本からの支援」と「二国間協力」について話し合っている。

(The Global New Light of Myanmar 5月6日付。投資・対外経済関係相と渡邊秀央氏の会見を報じる記事)

(同5月7日付。労働相が渡邊親子と会談したことを報じる記事。アンドウ・ハルヒコ氏が同席したとある)

 民間団体であっても、今のクーデター政権の閣僚と二国間関係を深めましょうなどということを話し合うこと自体、大問題だが、さらに、渡邊親子にAndo Haruhikoという人物が同席していることに驚愕する。

 安藤晴彦氏は内閣官房内閣審議官で現役の官僚である。これでは事実上、日本政府が今のクーデター政権を支持していることになるではないか。

 渡邊親子と日本政府の異様な関係については、篠田英朗さんが「日本外交を『指揮』する渡邊親子の破壊力」で批判している。
https://agora-web.jp/archives/2051634.html

 とにかく、日本をまともな外交をする国にしなければ。

 ウクライナ情勢にかくれて、ミャンマーにかんする報道が激減し、ミャンマーはもう片づいたかのような感じになっているが、問題はむしろこれからだ。

 クーデター政権は来年、総選挙をやって既成事実化をはかるが、これはなんとしても阻止しないと、ますますミャンマーは混迷する。

 メディアが日本が前向きな役割を果たせるよう、自覚をもって報道を続けてほしい。

(井本勝幸さん(右)と。このあと、二次会で楽しく飲んだ)

ウクライナまで伸びるプーチンの暗殺の手

 一昨日、ブログ読者からの連絡で、このブログにアクセスしようとすると、”404 Blog is not found”が表示されて見られなくなっていることが分かった。いま「はてなブログ」と連絡をとりあっている。
 いつ復活するか分からないが、こちらはいつも通り、書いていこう。

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 早乙女勝元さんが亡くなった。90歳だった。


 「1945年の東京大空襲を経験し、戦争の悲惨さを訴え続けた作家」と紹介されるように、早乙女さんの名前は東京大空襲に結びついている。「東京大空襲尾記録する会」の発起人であり、「東京大空襲・戦災資料センター」の初代館長となり、また太平洋戦争の空襲被害者による全国組織「全国空襲被害者連絡協議会」の共同代表をつとめた。

 

 早乙女さんには私もご縁があり、30年前にバンコクにいらしたとき、自宅に食事にお招きし、ネオン街のクラブにお連れした覚えがある。当時は文春記者だった勝谷誠彦さん(故人)が同行していたから、それで私がバンコクのご案内をすることになったのだと思う。

 おもしろいエピソードがある。

 早乙女さんは山田洋二監督とも親しく、映画「男はつらいよ」の舞台を柴又になったのは、山田さんが早乙女さんに案内されたことがきっかけだったそうだ。

 大きなものを後世に遺して逝かれた。ご冥福をお祈りします。
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 ウクライナのジャーナリストに「ピュリツァー賞」特別賞が授与されるという。

 報道によれば9日に《ウクライナのジャーナリストたちが特別賞に選ばれた。選考委員会は「ウラジーミル・プーチンによる冷酷な自国への侵攻、彼のロシアにおけるプロパガンダ戦争の間の勇気や忍耐力、真実の報道への尽力に対して」と説明している。

 選考委はまた、特別賞授与の理由として「爆撃や拉致、占領、時には仲間の死にもかかわらず、ウクライナのジャーナリストたちはおそろしい現実を正確に伝える努力にこだわっている」とも語った。

 国連によると、2月24日にロシアがウクライナへの侵攻を始めてから、ウクライナ国内で7人のジャーナリストの死亡が確認されている。表現の自由に関する国連の特別報告者らは今月4日、現地でジャーナリストが拷問や誘拐、攻撃の対象になっているとの報告が多数あると指摘した。ウクライナでは7人のジャーナリストが殉職したという。》(朝日新聞

 ここでは7人が死亡とされているが、十数人死亡との情報もある。

 ウクライナ人ジャーナリストは、外国人ジャーナリストより危険な場所で取材することが多く、また、ロシア兵につかまれば「敵性分子」と見なされ、殺害されなくともひどい扱いをされる。取材を続ける彼らの勇気を尊敬する。

 ウクライナで過去殉職したジャーナリストの中には、ロシアが裏で糸を引いていると疑われる事件で殺された人もいる。

 2016年7月には、著名なロシア人ジャーナリストが、車に仕掛けられた爆弾で爆殺されるという怖い事件が起きている。

(爆殺現場)

ウクライナの首都キエフ(Kiev)で20日、自動車爆弾が爆発し、ベラルーシ出身のロシア人記者パーベル・シェレメト(Pavel Sheremet)氏(44)が死亡した。

 シェレメト氏は、キエフ中心部を車で出勤中、運転していた車に仕掛けられていた爆弾が爆発して死亡した。内務省は、事件はウクライナの不安定化を狙ったものだと非難している。

 親欧米派の著名記者だった同氏はここ4年間、ニュースサイト「ウクラインスカ・プラウダウクライナの真実)」に記事を提供していた。同サイトの創設者ゲオルギー・ゴンガゼ(Georgy Gongadze)氏は16年前、親ロシア派だったレオニード・クチマ大統領(当時)の金融犯罪などについて調査した後、頭部を切断され殺害されていた。》(AFP)

 ウクライナには、プーチン政権を批判して逃れてきた政治家もいるが、2017年3月23日には、ある議員が首都キーウのど真ん中で銃殺されている。

(銃殺されたポロネンコフ氏の遺体と警官)


《殺害されたのは、前ロシア議員のデニス・ボロネンコフ氏。2014年3月に起きたロシアのクリミア併合を批判し、2016年にウクライナに逃亡した人物だ。
親ロ派のヤヌコビッチ前ウクライナ大統領への反逆事件で、ウクライナ当局の手助けもした。

 ボロネンコフ氏は、キエフの高級ホテルに向かっている途中に、銃で撃たれた。容疑者は、旧ソ連時代にデザインされたトカレフ銃で発砲。ボロネンコフ氏のボディーガードが銃で応戦した。

 ニューヨークタイムズが報じた地元警察の話によると、容疑者とボロネンコフ氏のボディーガードは、数メートルの距離から少なくとも計20発を撃ち合い、側道には血痕や薬きょうが飛び散った。

 地元検察の話では、ボロネンコフ氏は4回撃たれ、その場で死亡した。ボディーガードは胸を撃たれたが、生存している。一方容疑者は、頭に被弾した後に捕らえられ、搬送先の病院で死亡した。

 ボロネンコフ氏は、ヤヌコビッチ前ウクライナ大統領に対する裁判で都合の悪い法廷証言をするのを防ぐ目的で、殺害された可能性がある。

 もしくは、諜報機関であるロシア連邦保安局のマネーロンダリング資金洗浄)計画について、詳細を知りすぎたことが原因であるとも指摘されている。

 地元検察は「これは見せしめの殺人で、ロシアではよくあることだ」と話した。

 ボロネンコフ氏の殺害について、ウクライナのポロシェンコ大統領が「ロシアによる国家のテロ行為だ」と批判したと、ハフィントンポストUS版が報じた》(ハフィントンポスト)

 世界の国々を見回しても、ここまで露骨に体制の敵対者を暗殺しつづけるのはプーチンのロシアだけだ。外国まで暗殺者を派遣して。

 これを見ても、「どっちもどっち」(ロシアも、ウクライナも悪い)は通用しない。

ウクライナの教授は戦場から講義する

 9日はロシアの戦勝記念日で、「ウラー!」という叫び声がこだまするモスクワ赤の広場の映像がテレビに流れた。

NHKニュース)


 「広場は異様な熱気に包まれました」との特派員リポート。熱気とは?

 第二次大戦のソ連戦没者は民間人を入れて2700万人といわれ、ダントツに多い。犠牲者の中にはロシア人だけでなく、ウクライナ人も多く含まれる。

 というより、ウクライナこそ全土が戦場になって800万人の犠牲者を出し、もっとも悲惨な目にあっている。

 この悲惨だが栄光とされる史実をたどりながら、プーチンは「あなた方は父親や祖父、曽祖父が戦い取ったものを守ろうとしているのだ」とウクライナ侵攻を正当化した。過去の戦争が政権への忠誠心を鼓舞するのは、それが語り継がれてきたからだ。

 会場には、勲章を胸につけた高齢の退役兵だけでなく、多くの若者の姿もみられた。

 式典はロシア各地で行われ、ロシア軍がほぼ制圧したマリウポリなど、ロシア以外のロシア占領地でも開かれた。その一つ、モルドバのロシア軍駐留地、「沿ドニエストル共和国」の式典の様子を独自入手した映像でNHKが伝えていた。

 今どきの若者風な女性が、祖父が大祖国戦争を戦い私たちを守ってくれた、今日は大事な日です、と感慨深げに語っていて、戦争体験が広く共有されていることが分かる。

NHKニュースより)

 彼女の認識内容はさておき、この言葉を聴きながら、ひるがえって日本では「さきの大戦」が若い人たちにほとんど伝えられていないことに思い至った。

 今月15日は沖縄返還の日だ。これを契機に日本が戦った戦争について再度考えてみよう。

 今回のロシアによるウクライナ侵攻では、安全保障の仕組みや民族意識のありよう、さらには日本の防衛や憲法9条についても考えさせられる。侵攻には憤りも懸念も共有している(それでロシア大使館に抗議にも行った)が、その一方で、自分にとっての思想形成の訓練にもなっている。
 いろんな議論を前に、自分ならどう考えるだろうと思索し、事態が進むにつれ、考えが少しづつ変わっていったりする。こうやって思考が「進化」していくのがうれしい。もっとも志はぶれていないつもりだが。

 ロシアが栄光の歴史とするソ連軍の戦いには、周辺国からは疑問の声が上がる。

 2万人超の虐殺で知られる「カチンの森事件」を経験したポーランドは、ソ連が進駐して社会主義政権を強いられたことを暗黒の歴史と評価している。

(戦後、右の全体主義=ナチズムは徹底的に追及されたが、左の全体主義スターリニズムの罪は見逃された)


 第二次大戦をファシズムに対する民主主義の勝利と位置づけ、ソ連を「民主勢力」側に置いたことから国連安保理常任理事国にロシアも入っているわけだが、そのためにソ連の蛮行、人権侵害が十分に非難されずにきたことも歴史の教訓である。

 対独戦勝記念日は西欧では、前日の8日に行われ、ウクライナも2015年から新たに8日を「追憶と和解の日」にしている。

 この日、ゼレンスキー大統領が新たなビデオメッセージを出した。

 空爆された廃墟を背景に登場したゼレンスキーが、「なぜ春なのに白黒なのか、ウクライナはその答えを知っている」と説き起こす効果的なオープニング。今回の映像は全編白黒なのだ。pic.twitter.com/UXwIXgUPPM

 ナチズムとの戦いを今の対ロシア戦争へとつなげ、勝利への確信で締めくくる15分もの長さの映像だ。演出以上に彼の惹きつける語りがすばらしい。

 危機の時代のリーダーとして後世に語り継がれるだろう。

 

 ここ数日のニュースで驚いたのは、兵役についている大学教授が前線から遠隔で講義をしている姿。

(ウズホロド国立大学のヒョードル・シャンドル教授が、スマホで学生に遠隔講義をおこなっている)

 ウクライナ国民のほとんどは、ロシアに屈伏することを拒否し、あくまで「勝利」を目指している。今求めるのは、停戦ではなく反撃だ。

ウクライナではネットで子どもたちが前線の兵士を励ますプラットフォームがあり、こうした絵などがアップされているという。さすがIT先進国。NHKニュース
日本の戦中の「兵隊さんへの手紙」と並べて批判しないでほしいが)

 ここまでの覚悟であれば、私たちがすべきことは、ウクライナの戦いを支援しつづけることしかない。

 とにかくはやく停戦を!と言う日本人が多いが、いまウクライナ人はいいかげな妥協を受け入れまい。停戦条件についてはウクライナ人に任せるしかない。

 キーウの地下鉄駅でU2のボノ&ジ・エッジが避難市民にサプライズのアコースティックライブとのニュースも。

www.youtube.com


ウクライナの人々は自分たち自身の自由のためにでなく、自由を愛する私たちすべてのために戦っているのだ。ありがとう」

 世界の人々の心をつかむという点では、ウクライナがすでに圧倒的に勝利している。

田口八重子さん拉致事件の謎9(完)

 先日、『毎日新聞』「ひと」欄に、友人の満若勇咲(みつわか・ゆうさく)さんが紹介されていた。

 私の会社「ジン・ネット」では、カメラマン、ディレクターとして大変お世話になった。紛争地取材を体験したいとのことで、戦闘やまぬイラククルド人支配地域に行ってもらったこともある。

 また彼は、「f/22」というドキュメンタリー専門誌の編集長でもあり、私も倒産した制作会社の社長として取材された。(笑)

https://takase.hatenablog.jp/entry/20210707

 満若さんはこのほど、部落問題をテーマにした3時間半のドキュメンタリー映画「私のはなし 部落のはなし」を監督した。

 実は彼は大学の卒業制作で、食肉処理場を描いた映画「にくのひと」をつくり、上映しようとしたところ、部落解放同盟の一部から抗議があってお蔵入りになった。10年たって、再びそのテーマに挑戦したのが今回の作品だ。若いころ挫折したことに向き合う姿勢がすばらしい。映画は21日から公開される。

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 日本の対ロ制裁に対抗して、ロシアが日本人63人を入国禁止にした。
 そのリストがおもしろい。

 はじめに岸田首相以下、閣僚、政治家が並び、何人かの自民党議員の次に登場したのが志位和夫共産党委員長。共産党は激しくロシア批判をしていたから当然なのだが、事情を知らない多くの人にとってはびっくりだろう。

 メディア関係では、産経、読売の幹部の次にはなんとスポーツジャーナリストの二宮清純氏が挙げられている。二宮さん、ナベツネと同格、すごい。「選択」編集人兼発行人や「週刊文春」編集長が挙がっていて、ロシア大使館の情報収集にどんな雑誌が読まれているかが分かる。研究者では、袴田茂樹氏や中村逸郎氏などおなじみの顔ぶれが。

 このリストに名前が出るのは「名誉」だろう。出されずに残念がっている人も多そうだ。
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 田口八重子さん拉致事件について。

 前回の条件を前提に、①李京雨も認めた旅の目的地である「新潟」と工作船の出航地と推測される「九州」との間によこたわる長い距離、②東京で失踪した時と工作船で運ばれた時の間にある3週間という長い時間の謎をどう考えるか。

 地村富貴恵さんは八重子さんから「お母さんが、佐渡出身で、子供の頃は良く遊びに行った」と聞かされていた。だから李京雨が、八重子さんが特別な思いを持っていた佐渡行きで誘って、その後九州に連れて行ったのだろうか。

 その場合、こう想像してみたらどうか。

 李京雨は、数日間一緒に佐渡に旅行しようと誘った。そして、新潟から八重子さんを拉致する手はずを本国と連絡しつつ整えていた。

 八重子さんが誘いに乗って出発したまではよかったが、北朝鮮工作機関から李京雨に突然、拉致指令の変更の連絡が入る。新潟に来るはずの工作船の出航を中止せざるを得ない事情が発生、代わりに九州に向けて3週間後に工作船を手配するというのだ。

 一人の工作員が、日本海コース(例:新潟から清津へ)も東シナ海コース(例:宮崎から南浦へ)も使うことは、例えば辛光洙が、福井県小浜から地村さんたちを日本海コースで拉致し、宮崎から原さんを東シナ海コースで拉致していることからも分かる。

 ただこの場合、八重子さんは旅程が大幅に変更されたことに驚き、家族か職場または親しい友人に連絡するのが自然だ。二人の幼い子どもを預けているのだから、なおさらだ。

 

 ではこんどは、最初から長期の九州行きを八重子さんも承知して旅に出たと考えたらどうか。

 八重子さんが最後にベビーホテルに子どもを預けに来た時、男性の運転する車から出てきて、1ヵ月分の保育料15万円を先払いしたという事実とむしろ整合する。
 https://takase.hatenablog.jp/entry/20220108

 八重子さんが1カ月先払いしたことは、それなりの長い期間、東京を留守にするつもりだったのではないか。兄の飯塚繁雄さんは、八重子さんはお金に余裕がなかったから、そのまとまったお金は「男」が出したのだろうという。

 李京雨は、これは訳アリの旅になるから、知り合いには怪しまれない行き先を言っておけと八重子さんに指示した。そこで八重子さんは「新潟」にちょっと出かけてくると周囲には言っておいた。

 なぜそんな秘密めかした長期の旅を八重子さんは承諾したのか。

 ここでヒントになるのが、八重子さんが富貴恵さんに言ったという、「騙すつもりが騙された」という言葉だ。失踪前、知り合いが八重子さんから、「近くお店を持ちたい」と聞いていたとの情報もある。

 子ども2人を育てるシングルマザーとして、お金の心配をしなくてよい安定した暮らしを望むのは人情である。男(李京雨)は、八重子さんに、大金を得られるうまい話を持ち掛け、いろいろな口実を設けて九州まで誘ったのではなかったか。

 限られた材料から想像した一つのシナリオだが、しかし、これとは完全に矛盾する情報がある。

(八重子さんが失踪時に、二人の子どもと住んでいたマンション)


 八重子さんのマンションの部屋の隣には、仲の良い同僚の女性が住んでいて、繁雄さんに失踪前の状況をこう語っていたというのだ。

「私と八重子さんはいつも、店が終わって帰宅した後、交代で夜食を作っていました。八重子さんがいなくなった日は、八重子さんが作る番だったのです。八重子さんは『もうすぐ食事ができるからね』と私の部屋に言いに来ました。その少し後に人が来たようなドアの音がしました。私はそのまま八重子さんが来るのを待っていましたが、なかなか呼びに来ないので様子を見に行きました。すると、食事は作りかけのままで、誰も部屋にいなかったのです。それ以来八重子さんは戻ってきていません」
(前掲の連載第1回目参照)

 これが事実だとすれば、夜食の準備をしている最中に急に呼び出されてそのまま連れ去られたことを示唆している。謎は解けないままだ。


 86年夏、八重子さんは忠龍里(チュンリョンリ)から移動したが、それが他の拉致被害者たちが見た最後の姿となった。

 地村富貴恵さんによれば、1986年7月に八重子さんは「違う招待所に行くかもしれない。そこに行ったらもう会えないかもしれない」と言っていたという。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20220122

 蓮池薫さんは、八重子さんが向かった「違う招待所」を人民軍管轄と推測したが、その通りだったようだ。というのは、翌87年頃、地村富貴恵さんは、工作機関の運転手から、外貨ショップで田口さんに会い「(田口さんを乗せた)車のナンバーが人民武力部のものだった」と聞いている。

 蓮池夫妻、地村夫妻、めぐみさんなど、忠龍里で一緒だった拉致被害者はみな労働党対外情報調査部(調査部)所属だった。八重子さんは労働党調査部から人民武力部(軍)の所属に移ったと推測される。ちなみに、曽我ひとみさんも人民武力部の所属だった。人民軍には偵察局という工作機関があり、そこでも日本人拉致被害者を管轄していたのだ。

 八重子さんが今どうしているか、情報が全くない。生死も定かではない。

 とても残念だが、八重子さんは、生存しているとしても、もっとも奪還が難しい拉致被害者であると思われる。

 北朝鮮はそもそも大韓航空機爆破事件を認めておらず、「李恩恵(リ・ウネ)」なる人間は北朝鮮にいないと言い張っている。

 八重子さんのたどった運命は、拉致という犯罪の悲劇性をもっとも強く訴えてくる。拉致されただけでなく、多くの人を犠牲にする凶悪なテロの計画にまで加担させられたのである。

 最奥の国家機密を知る人間として、一般社会から隔絶した形で幽閉されていると推測する。

 北朝鮮の現体制が大きな変革をとげ、過去の秘密工作が公開されるようになるまでは、八重子さんの存在が表に出されることはないのではないか。
 今は、八重子さんが無事であることを祈ろう。

田口八重子さん拉致事件の謎8

 ウクライナでは2月24日の国民総動員令で、18歳から60歳までの男性は原則として国外に出られなくなっている。

 誰も死にたくはないから、銃を取って戦うことに拒否感を持つ人がたくさんいるのは当然だ。

 NHK国際報道で、ロシアの侵攻時、たまたまギリシャにいて今も国に戻らないウクライナ男性エフゲニーさんの苦悩を報じていた。

 ウクライナに帰国したら、もう外には出られない。ポーランドに留まって戦争が終わるのを待つという。

(エフゲニーさんは、「戦場で死にたくありません。それは思い描いた人生ではありません」と語る  NHK国際報道より)

(ロシアが侵攻する前の2月上旬だが、「戦う」は3分の1強だけ)

 悩んだすえ、自分も何かしら貢献したいと、カメラマンの彼は、ウクライナから非難してきた人々のドキュメントを撮影しはじめた。

ポーランドで避難してくるウクライナ人を撮影するエフゲニーさん)

 戦闘には参加したくないが、祖国の勝利を祈っていると語る。

(エフゲニーさんは、国を愛する気持ちは強く持っているのだが、と葛藤を続ける)

 多くの若者がこういう葛藤を抱えているだろう。早くロシアの侵攻を終わらせなければ。
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 前回、田口八重子さんに近づいてきた男、「宮本」こと李京雨(リ・ギョンウ)について書いたが、彼の存在は国会答弁にも出てくる。

 1988年3月の参院予算委員会で、大韓航空機爆破事件の実行犯の工作員が、蜂谷真一、真由美名義の旅券を使っていたことについて質疑がなされていた。

橋本敦議員(共産)

 「蜂谷真一、蜂谷真由美名義の偽造旅券、この旅券は偽造された場所はどこだとお考えですか」

城内康光警察庁警備局長

 「お答えいたします。本件の偽造旅券は蜂谷真一という実在の人の名前を使っておるわけでございます。その関係について調べましたところ、その偽造旅券の作製に、北朝鮮の秘密工作員であることが明らかな宮本明こと李京雨が関係していたということがわかっております。」(後略)

 李京雨は大韓航空機事件の実行犯の偽造旅券作製といういわばバックアップを行い、さらに金賢姫を教育した八重子さんの拉致に関わっていた、かなり「大物」の工作員だったとみられる。

 田口八重子さんが拉致された状況は分からないことが多いが、そこに李京雨はどう関与していたのか。

 謎のポイントは大きく二つ。

 一つは、新潟と九州という遠く離れた場所が事件に登場すること。八重子さんが北朝鮮に運ばれたルートは、九州から南浦であろうと私が推測していることはすでに書いた。だが、八重子さんは失踪前に「新潟に行く」と言っていたのだ。

 八重子さんは失踪の直前、友人に「好きな人ができたの。その人と新潟に旅行に行くのよ。景色も良いし、思い出があるところだから楽しみにしているの」と語っていたという。

 一方、八重子さんは北朝鮮で一時同居した地村富貴恵さんに「知り合いの男性に九州に連れて行かれた。工作員に引き渡され、(工作船で)北朝鮮に連れてこられた」「(その男は)リムジンのような外車に乗っていた知り合い」だと話している。
 八重子さんはまた、「騙すつもりが騙された」とも語っていたという。

takase.hatenablog.jp

 この「知り合いの男性」が李京雨だった可能性は高いと思われる。警察もそう見ていた。

 友納尚子さんの記事によると―

 《実は、田口さんの拉致を警察庁が認定した平成3年以降、埼玉県警は「宮本」から諜報接触という形で話を聴いている。そのとき「宮本」は、事情聴取にすんなり応じてこう語った。

「確かに失踪したと言われる直前に、彼女と二人で新潟にいきましたよ」

 だが、肝心な部分になると、実に奇妙な供述を始めたのだった。

「ところが、旅行の途中で突然、彼女が『行きたい場所があるので行ってきます』と、言う。仕方がないので、何時間か後に、待ち合わせの場所を決めて、しばらく別行動したのです。しかし、約束の時間になって、その場所に行って見ると、彼女はいない。何時間たっても現れなかったので、一人で東京に帰ってきたのです。それからも店の方に何度も連絡を入れたのですが、彼女と連絡をとることはできませんでした」

 この時点で、警察は「宮本」が彼女を拉致したことは間違いないと確信を持ったという。しかし、逮捕するだけの証拠が揃わなかったため、警察がこれ以上の追及をしたという記録はない。》(文藝春秋2002年12月号)

 「宮本」こと北朝鮮工作員・李京雨は、八重子さんと新潟旅行に出かけた上で、途中で八重子さんとはぐれてしまったと警察に供述したという。不自然な話である。

 

 もう一つ謎なのが日本から出た日にちだ。

 北朝鮮からの説明では、八重子さんは1978年6月29日に、「宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた」とされている。

 八重子さんは2人の幼い子どもを託児所に預けており、「観光がてら」北朝鮮に行きたいなどと言うはずがないから、ここは作り話として、問題は6月29日という日付けである。

 実は、八重子さんが東京から失踪したのはそれよりずっと前だった。

《78年6月12日の夕方、繁雄さんに「お宅の妹さんが、お店を2,3日無断欠勤していて、子どももベビーホテルに置いたまま引き取りに来ないそうだ」との電話がハリウッドからかかってきた。》そして、《飯塚繁雄さんは、八重子さんを待ちつづけるが何の消息もなく、7月2日に警察に家出人捜索願いを出している。》

takase.hatenablog.jp

 となると、東京から失踪したのは6月8日か9日と見られる。

 拉致実行日については、北朝鮮はウソをつく理由がない。また、他の拉致被害者の拉致の日付はおおむね正確なようだ。

 この3週間のギャップをどう見たらいいのか。

(つづく)

田口八重子さん拉致事件の謎7

 ウクライナの隣のモルドバで不審な爆発事件が続いている。

(1日のTBSサンデーモーニングより)

モルドバ東部に「沿ドニエストル共和国」を名乗る地域がある。約30年にわたり露軍が駐留しており、事実上のロシア支配地域だ。
 この地域では最近、不穏な動きが相次ぐ。4月26日、ラジオのロシア語放送に使われていた電波塔2本が何者かに爆破された。25日夜には中心都市チラスポリで、当局の建物にロケット弾が撃ち込まれた。別の場所で治安部隊が襲撃されたとの情報もある。
 モルドバは1991年のソ連崩壊に伴い独立国となった。プーチン露大統領がロシアの勢力圏と見なす国の一つだが、現在の政府は米ハーバード大政治学を学んだマイア・サンドゥ大統領の下、親米欧姿勢が鮮明だ。
 露国営メディアは4月、「沿ドニエストルのロシア語系住民が迫害されている」とする露軍幹部の発言を伝えた。「ロシア語系住民の迫害」は、ロシアが侵略の大義名分に使う常とう句だ。》(読売新聞)

 自作自演の爆破事件を起こして軍隊を出すのはプーチンの得意技だから、危ないな。

モルドバのサンドゥ大統領も危機感をあらわにする)

 プーチンがどんどん戦火を拡大する気配が懸念される。

 

 三度目(みたびめ)の過ちとなる瀬戸際に晒されている大戦と核 (尾道市 森 浩希)
 吐(つ)いた嘘無かったように新たなる嘘をまた吐く嘘吐きの嘘 (川崎市 西村健児)
 朝日歌壇24日の入選歌より。

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 さて、3月で途絶えていた連載を再開したい。(えーと、どこまで書いたっけ?)

 田口八重子さんは1歳と3歳の子どもを抱え、池袋のキャバレー「ハリウッド」に「千登世(ちとせ)」という源氏名で勤務していた。そんな八重子さんの「日常に忍び寄った一人の男」、「宮本」という名の中年男がいた

《『宮本』は『ハリウッド』の常連客で、頻繁に田口さんを指名していました。黒縁の眼鏡をかけ、背が高くて、がっちりとした体格で、関西弁を話していました」(店の関係者)
 ある日、田口さんは男と一緒に車で東京・高田馬場ベビーホテルに突然乗り付け、「子どもを2,3日預かって欲しい」と言い残して、どこかに消えた。ベビーホテルに提出した用紙には、田口さんの勤務先の電話番号と、名前の欄には乱暴な文字で「ミヤモト」と走り書きされていた。》

 というわけで、今回は、八重子さん失踪のカギを握るとみられるこの男について書いていく。

 この男の本名は李京雨(リ・ギョンウ)という。

(李京雨)

 李京雨の存在が初めて浮上するのは、1971年の北朝鮮スパイ事件「足立事件」のときだった。島根県から上陸し、東京足立区を拠点に、多数の在日朝鮮人を補助工作員に抱えた工作員朴某が、訪日した韓国空軍将官北朝鮮亡命を画策した事件だ。李京雨は事情聴取を受けたが、容疑不十分で逮捕にはいたらなかった。朴は懲役6月、猶予2年の判決で、翌年、北朝鮮へ自費出国している。

 その14年後、李京雨は、最大の北朝鮮スパイ事件といわれる「西新井事件」に登場する。主人公は、秋田県男鹿半島から上陸した、別の朴を名乗る工作員。朴は東京山谷の路上で倒れていた小熊和也さんに近づき、彼の運転免許証と旅券を取得して「小熊」に成りすました。小熊さんが病死したためいったん北朝鮮に戻るが、4年後に再び東京に現れ、今度は北海道から出稼ぎに上京していた小住健蔵さんに成りすました

 警察用語で他人に成りすますことを「背乗り(はいのり)」という。朴は「小熊」名義の旅券で、フランス、ソ連などに3回、「小住」名義の旅券で、マレーシア、タイ、香港、韓国、西ドイツなどに6回、海外渡航を繰り返し、対南工作を行っていた。

 小住さんの戸籍が函館から東京に移されたことに姉妹が不審を感じたことから捜査が始まり、83年2月、危険を察知した朴は15年潜伏していた日本からクアラルンプールに出国、そのまま行方不明となっている。

 朴は通称チェ・スンチョルといい、後に、78年7月の蓮池薫さん、奥土祐木子さん拉致の実行犯として指名手配されることになる

(チェ・スンチョル、警察の手配写真より)

 朴を見失なった警視庁は、朴が社長だった西新井本町の会社に住み込んでいた補助工作員在日韓国人、金某の張り込みを続ける。そして捜査線上に浮かんだもう一人の不審人物が李京雨だった。李京雨は朴がアパートを借りる際の連帯保証人になっただけでなく、自らが経営する会社役員にも就任させた。

 朴が出国して半年後、李京雨が動き出す。

 朝鮮人バタヤ街で知り合った蜂谷真一氏を呼び出し、旅券申請を代行。さらに翌84年8月から約1カ月間、蜂谷氏をバンコク、マニラへの接待旅行に連れ出した。

 蜂谷真一といえば、後の1987年11月の「大韓航空機爆破事件」の実行犯で、逮捕直前に自決した工作員金勝一が所持していたのが「蜂谷真一」の偽造旅券だった。金賢姫はその娘役で「蜂谷真由美」の偽造旅券を所持していた。二人は日本人の父と娘を装っていた。

 接待旅行中の蜂谷氏がマニラに滞在していた84年9月21日から26日までの6日間、金勝一は偽造「蜂谷」旅券でソウルに滞在していた。李京雨は金勝一の韓国滞在を安全にするために蜂谷氏を旅行に連れ出したことになる。

 年が明けた85年3月、警視庁は内偵していた金某を逮捕し、朴を指名手配した。その時、李京雨の姿はなく、自宅から暗号解読用の要領書や薬品が押収されただけだった。実は李はその2週間前、事件の舞台となった西新井本町からわずか300mの総連系の西新井病院に入院していた。そして4月に退院すると、忽然と姿を消したのだった。

 李京雨の名がメディアに大きく登場するのは、2年後の大韓航空機爆破事件で「蜂谷」旅券が使われたからだった。

 李京雨は、西新井事件、大韓機事件そして八重子さん拉致事件のすべてに関与していたことになる。
(つづく)

注)李京雨に関して、裵淵弘「北朝鮮大物スパイ『李京雨』という人生」(新潮45 03年6月号)を参照、引用した。