田口八重子さん拉致事件の謎9(完)

 先日、『毎日新聞』「ひと」欄に、友人の満若勇咲(みつわか・ゆうさく)さんが紹介されていた。

 私の会社「ジン・ネット」では、カメラマン、ディレクターとして大変お世話になった。紛争地取材を体験したいとのことで、戦闘やまぬイラククルド人支配地域に行ってもらったこともある。

 また彼は、「f/22」というドキュメンタリー専門誌の編集長でもあり、私も倒産した制作会社の社長として取材された。(笑)

https://takase.hatenablog.jp/entry/20210707

 満若さんはこのほど、部落問題をテーマにした3時間半のドキュメンタリー映画「私のはなし 部落のはなし」を監督した。

 実は彼は大学の卒業制作で、食肉処理場を描いた映画「にくのひと」をつくり、上映しようとしたところ、部落解放同盟の一部から抗議があってお蔵入りになった。10年たって、再びそのテーマに挑戦したのが今回の作品だ。若いころ挫折したことに向き合う姿勢がすばらしい。映画は21日から公開される。

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 日本の対ロ制裁に対抗して、ロシアが日本人63人を入国禁止にした。
 そのリストがおもしろい。

 はじめに岸田首相以下、閣僚、政治家が並び、何人かの自民党議員の次に登場したのが志位和夫共産党委員長。共産党は激しくロシア批判をしていたから当然なのだが、事情を知らない多くの人にとってはびっくりだろう。

 メディア関係では、産経、読売の幹部の次にはなんとスポーツジャーナリストの二宮清純氏が挙げられている。二宮さん、ナベツネと同格、すごい。「選択」編集人兼発行人や「週刊文春」編集長が挙がっていて、ロシア大使館の情報収集にどんな雑誌が読まれているかが分かる。研究者では、袴田茂樹氏や中村逸郎氏などおなじみの顔ぶれが。

 このリストに名前が出るのは「名誉」だろう。出されずに残念がっている人も多そうだ。
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 田口八重子さん拉致事件について。

 前回の条件を前提に、①李京雨も認めた旅の目的地である「新潟」と工作船の出航地と推測される「九州」との間によこたわる長い距離、②東京で失踪した時と工作船で運ばれた時の間にある3週間という長い時間の謎をどう考えるか。

 地村富貴恵さんは八重子さんから「お母さんが、佐渡出身で、子供の頃は良く遊びに行った」と聞かされていた。だから李京雨が、八重子さんが特別な思いを持っていた佐渡行きで誘って、その後九州に連れて行ったのだろうか。

 その場合、こう想像してみたらどうか。

 李京雨は、数日間一緒に佐渡に旅行しようと誘った。そして、新潟から八重子さんを拉致する手はずを本国と連絡しつつ整えていた。

 八重子さんが誘いに乗って出発したまではよかったが、北朝鮮工作機関から李京雨に突然、拉致指令の変更の連絡が入る。新潟に来るはずの工作船の出航を中止せざるを得ない事情が発生、代わりに九州に向けて3週間後に工作船を手配するというのだ。

 一人の工作員が、日本海コース(例:新潟から清津へ)も東シナ海コース(例:宮崎から南浦へ)も使うことは、例えば辛光洙が、福井県小浜から地村さんたちを日本海コースで拉致し、宮崎から原さんを東シナ海コースで拉致していることからも分かる。

 ただこの場合、八重子さんは旅程が大幅に変更されたことに驚き、家族か職場または親しい友人に連絡するのが自然だ。二人の幼い子どもを預けているのだから、なおさらだ。

 

 ではこんどは、最初から長期の九州行きを八重子さんも承知して旅に出たと考えたらどうか。

 八重子さんが最後にベビーホテルに子どもを預けに来た時、男性の運転する車から出てきて、1ヵ月分の保育料15万円を先払いしたという事実とむしろ整合する。
 https://takase.hatenablog.jp/entry/20220108

 八重子さんが1カ月先払いしたことは、それなりの長い期間、東京を留守にするつもりだったのではないか。兄の飯塚繁雄さんは、八重子さんはお金に余裕がなかったから、そのまとまったお金は「男」が出したのだろうという。

 李京雨は、これは訳アリの旅になるから、知り合いには怪しまれない行き先を言っておけと八重子さんに指示した。そこで八重子さんは「新潟」にちょっと出かけてくると周囲には言っておいた。

 なぜそんな秘密めかした長期の旅を八重子さんは承諾したのか。

 ここでヒントになるのが、八重子さんが富貴恵さんに言ったという、「騙すつもりが騙された」という言葉だ。失踪前、知り合いが八重子さんから、「近くお店を持ちたい」と聞いていたとの情報もある。

 子ども2人を育てるシングルマザーとして、お金の心配をしなくてよい安定した暮らしを望むのは人情である。男(李京雨)は、八重子さんに、大金を得られるうまい話を持ち掛け、いろいろな口実を設けて九州まで誘ったのではなかったか。

 限られた材料から想像した一つのシナリオだが、しかし、これとは完全に矛盾する情報がある。

(八重子さんが失踪時に、二人の子どもと住んでいたマンション)


 八重子さんのマンションの部屋の隣には、仲の良い同僚の女性が住んでいて、繁雄さんに失踪前の状況をこう語っていたというのだ。

「私と八重子さんはいつも、店が終わって帰宅した後、交代で夜食を作っていました。八重子さんがいなくなった日は、八重子さんが作る番だったのです。八重子さんは『もうすぐ食事ができるからね』と私の部屋に言いに来ました。その少し後に人が来たようなドアの音がしました。私はそのまま八重子さんが来るのを待っていましたが、なかなか呼びに来ないので様子を見に行きました。すると、食事は作りかけのままで、誰も部屋にいなかったのです。それ以来八重子さんは戻ってきていません」
(前掲の連載第1回目参照)

 これが事実だとすれば、夜食の準備をしている最中に急に呼び出されてそのまま連れ去られたことを示唆している。謎は解けないままだ。


 86年夏、八重子さんは忠龍里(チュンリョンリ)から移動したが、それが他の拉致被害者たちが見た最後の姿となった。

 地村富貴恵さんによれば、1986年7月に八重子さんは「違う招待所に行くかもしれない。そこに行ったらもう会えないかもしれない」と言っていたという。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20220122

 蓮池薫さんは、八重子さんが向かった「違う招待所」を人民軍管轄と推測したが、その通りだったようだ。というのは、翌87年頃、地村富貴恵さんは、工作機関の運転手から、外貨ショップで田口さんに会い「(田口さんを乗せた)車のナンバーが人民武力部のものだった」と聞いている。

 蓮池夫妻、地村夫妻、めぐみさんなど、忠龍里で一緒だった拉致被害者はみな労働党対外情報調査部(調査部)所属だった。八重子さんは労働党調査部から人民武力部(軍)の所属に移ったと推測される。ちなみに、曽我ひとみさんも人民武力部の所属だった。人民軍には偵察局という工作機関があり、そこでも日本人拉致被害者を管轄していたのだ。

 八重子さんが今どうしているか、情報が全くない。生死も定かではない。

 とても残念だが、八重子さんは、生存しているとしても、もっとも奪還が難しい拉致被害者であると思われる。

 北朝鮮はそもそも大韓航空機爆破事件を認めておらず、「李恩恵(リ・ウネ)」なる人間は北朝鮮にいないと言い張っている。

 八重子さんのたどった運命は、拉致という犯罪の悲劇性をもっとも強く訴えてくる。拉致されただけでなく、多くの人を犠牲にする凶悪なテロの計画にまで加担させられたのである。

 最奥の国家機密を知る人間として、一般社会から隔絶した形で幽閉されていると推測する。

 北朝鮮の現体制が大きな変革をとげ、過去の秘密工作が公開されるようになるまでは、八重子さんの存在が表に出されることはないのではないか。
 今は、八重子さんが無事であることを祈ろう。