田口八重子さん拉致事件の謎

 きのうは東京都心で零下3.5度まで下がったそうだ。ここ多摩地区はもっと冷えただろう。朝まで雪が消えなかった。

f:id:takase22:20220107064830j:plain

きのうの朝、自転車がこんな姿に

 毎日、コロナ新規感染者の数を確認するのがこわい。

 きょう8日、全国で感染が確認されたのが8480人。8000人を上回るのは9月11日以来、4カ月ぶり。元日の感染者数は534人だったから今年に入ってから15倍も増えたことになる。うち沖縄県が1759人、広島県が547人で過去最多。東京都は1224人と4桁になった。
 こんな急な増え方ははじめてだ。どこまでいくのか。

 それにつけても、各国での米軍のありようを比べると、日本がいかに主権不在の状況なのかを見せつけられ、愕然とする。

f:id:takase22:20220107082451j:plain

f:id:takase22:20220107081858j:plain


・・・・・・・・
 

 飯塚繁雄さんの逝去を偲んでブログを書いたが、田口八重子さんが拉致された事件とその後については、いまだに謎が非常に多いことにあらためて気づいた。この機会に、はじめから事件をたどってみたい。

 八重子さんは、1955年、埼玉県川口市に飯塚家の7人きょうだいの末っ子として生まれた。父親は末っ子の八重子さんを目に入れても痛くないほどのかわいがりようだったが、八重子さんが10歳のころに亡くなった。八重子さんはその後、歳が17歳も離れていた長男の繁雄さんを頼りにし、慕っていたという。

f:id:takase22:20211226172250j:plain

繁雄さんの結婚式にて。後方の八重子さんはこのとき11歳。

 飯塚家は今でいうシングルマザーの家庭となり、子どもが多く、家計は厳しかった。八重子さんは、きょうだいでは唯一、高校に進学したが、2年で中退して働きだした。「家の台所事情をうすうすわかっていた八重子は、自分も早く働こう、という気になったのでしょう」と繁雄さんはいう。

 八重子さんは20歳になるかならないかで7歳ほど上の不動産屋の息子と結婚し、年子で女の子と男の子を産んだ。ところが夫が賭け事に熱中して帰宅しない日が増え、夫婦関係は破綻していった。

 父親代わりの繁雄さんは、たびたび悩みを相談されていたが、ついに1977年の秋、八重子さんは、夫と借りていたアパートを飛び出し、離婚を決意して繁雄さんの家に子ども二人を連れてやってきた。繁雄さんは八重子さんが持参した離婚届の保証人に記名し、それを八重子さんの夫に届けて、自分の名前を記入して役所に持っていくよう託した。結局、夫は離婚届を出さないままで、八重子さんは今だに田口姓で報じられている。

f:id:takase22:20220109011422j:plain

八重子さんと長女と耕一郎さん。八重子さんは二人をとても可愛がっていたという。「こんなに幸せそうな八重子の顔を見たことがない」(繁雄さん)

 繁雄さん夫婦は支援を申し出るが、八重子さんはそれを断り、一人で子どもたちを育てようとマンションを借り、池袋のキャバレー「ハリウッド」で働きだした。当時は、子どもをもった女性が、ある程度の収入も得られる仕事といえば、水商売くらいしかなかった。二人の子どもを24時間見てくれる無認可の「ベビーホテル」に預け、週に2,3度家に連れ帰るという生活だったが、八重子さんは子どもたちをとても可愛がっていたという。

 78年6月12日の夕方、繁雄さんに「お宅の妹さんが、お店を2,3日無断欠勤していて、子どももベビーホテルに置いたまま引き取りに来ないそうだ」との電話がハリウッドからかかってきた。2歳半の長女、1歳の長男の耕一郎さんを残して八重子さんは忽然と消えてしまった。

 ベビーホテルの女性は繁雄さんに、八重子さんはいつもは一人で子どもたちを預けにきていたが、最後に来たときは、男性の運転する車に乗っていたと語った。男性の顔は見なかったが、八重子さんが車から出てきて、1ヵ月分の保育料15万円を先払いしたという。

 八重子さんのマンションの部屋の隣には、仲の良いハリウッドの同僚の女性が住んでいて、繁雄さんに失踪前の状況をこう語った。

「私と八重子さんはいつも、店が終わって帰宅した後、交代で夜食を作っていました。八重子さんがいなくなった日は、八重子さんが作る番だったのです。八重子さんは『もうすぐ食事ができるからね』と私の部屋に言いに来ました。その少し後に人が来たようなドアの音がしました。私はそのまま八重子さんが来るのを待っていましたが、なかなか呼びに来ないので様子を見に行きました。すると、食事は作りかけのままで、誰も部屋にいなかったのです。それ以来八重子さんは戻ってきていません」(以上、飯塚繁雄『妹よ』から引用)

f:id:takase22:20211226171230j:plain

八重子さんが使っていた茶だんすと食器。繁雄さんが八重子さんのマンションを解約して荷物を整理したときにこれだけは引き取り、大切に保管してきた。「何か八重子のものをそばに置いておきたかった」からだ。

 「ベビーホテル」の女性の証言からは、八重子さんはしばらくどこかに行く予定をしていたようにも思えるが、同僚の話からは、夜中に突然の訪問者が現れて連れ去られた可能性もありそうだ。いなくなった事情が判然としない。

 繁雄さんがハリウッドの店長に八重子さんの仕事ぶりを聞いたところ、200人以上いたホステスの中で、15人に入る売れっ子だったという。また店長によると、特に足しげく通っていた客がいたようすはなかったという。

 飯塚繁雄さんは、八重子さんを待ちつづけるが何の消息もなく、7月2日に警察に家出人捜索願いを出している。

 繁雄さんが調べ回った限りでは、失踪の理由や背景はほとんど分からなかった。

 しかし、実は当時、八重子さんに頻繁に接触していた人物がいたとの情報がある。そして、その人物は、北朝鮮がらみの他の重大事件に関わっていた。
(つづく)