早大を暴力が支配した時代

 おととい紹介した「赤報隊」を追い続けている朝日新聞の樋田毅記者が、きのう月曜夕方、番組をつくったTBSの秋山浩之プロデューサー とともに、上智大学のジャーナリズム講座で講義をした。
 秋山さんにお知らせをもらったので、聴講に行った。100人近い学生にまず番組を観せたあと、樋田さんと秋山さんが番組について意見交換しあい、学生とのやりとりがあった。鋭い質問もとんでおもしろかった。

 秋山さんは、TBSに入社した1か月後、報道局に配属されたその日に朝日新聞阪神支局襲撃事件を聞いたという。記者殺害というニュースにショックを受け、同期から「報道局の記者やめようかな」という声も上がった。でも、「これでひるんじゃだめだな」と励まし合ったという。「昭和に起きた未解決事件のひとつですが、『絶対、忘れてはいけない』との思いで取材しました」と秋山さん。彼にとっても執念が実った番組だったわけだ。

 樋田さんは大阪在住だが東京泊だというので、四谷で一緒に飲んだ。
 話はやはり45年前のことになり、「樋田さん、革マル派に鉄パイプで重傷を負わされたあと、どうしたの?」と聞くと、一度も大学に行かずに全部レポートで単位をとって卒業したとのことだった。
 川口君をリンチ虐殺したのが文学部自治会の革マル。その文学部自治会の執行部をリコールして新委員長になったのが樋田さんだから、革マルにとってはエネミーナンバーワンなのだ。それに樋田さんは学生に絶大な人気があったから、どうしても潰したい存在だったろう。

 樋田さんは入学したその年の11月8日の虐殺事件から運動の先頭に立ち、1年生で自治会委員長に押し上げられ、翌年5月には革マルのテロでやられたから、キャンパスに出入りできたのはたった1年間しかなかったことになる。
 今から考えると、学生が自由にモノも言えず、ごく少数の「支配者」ににらまれると、その人は授業を受けることもできないだけでなく、つかまってリンチされヘタをすれば殺される、そんなとんでもない空間が東京のど真ん中に存在していたことが実に不思議だ。そして、その事実がほとんど知られないまま、早大は名門大学として世間に通用してきたのである。
 また、革マルの暴虐とキャンパスの異常事態を大学当局が事実上容認し、年間2億円といわれる資金が、自治会費や文連運営費などの名目で提供されていたことも不可解だ。大学当局が革マルと縁を切ったのは、ずっと後の奥島総長時代の2000年前後になる。川口君事件から30年近く、事態は放置されてきたのだ。
 
 自由というものは意外に脆弱なものだなと思う。それは企業や国家などのレベルでも言えるのかもしれない。
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 川口君虐殺事件というと、もう一人の名前が浮かんでくる。
 山村政明というかつて第二文学部に在籍していた早大生だ。彼は帰化した在日朝鮮人で、元の名を梁政明という。川口君事件の2年前、1970年10月5日未明、文学部キャンパスのそばにある穴八幡神社の境内で焼身自殺した。
(下宿で読書する山村政明さん:遺稿集より)
 同時期に早大生だった姜尚中氏も衝撃を受けたといっているほか、人気歌手のにしきのあきら氏も大きなショックを受けたと聞く。(にしきの氏がその2年後に在日であることを「カミングアウト」する一つのきっかけになったかもしれない)自殺の原因としては、在日としての悩みに焦点が当てられた。『いのち燃えつきるとも 山村政明遺稿集』の巻頭に、作家の李恢成が「二つの祖国所有者の叫び」という一文を寄せたが、そこには「彼を死へ追いやった根源的な原因が民族問題から発生している」と書かれている。

 たしかに彼は、帰化したことが民族への裏切りではないかなど、民族の問題で深刻に自分を問い詰めていた。また、学業と労働を両立させられないことや、信仰と恋愛の問題などでも悩んでいたことが遺稿集から分かる。きわめて誠実で繊細な人だったようだ。
 しかし、彼の自死はあきらかに、革マルの暴力支配によって通常の学生生活が送れなくなったことに誘発されたものだと思う。

 貧しかった山村さんは高卒後就職したが、ドストエフスキーに惹かれ、ロシア文学をやりたいと退職して早大第一文学部に入学。学費も生活費も自分で稼ぐ厳しい生活で、やむなく一文から夜間の二文に転部した。
 社会問題に目覚めた山村さんは、はじめ革マルにも接点を持つが、その暴力体質に反発し闘うことになる。革マルの拠点、第二文学部の学生大会では議長に立候補して当選し、革マルストライキ方針に抵抗した。勇気ある正義漢である。キリスト者としてキング牧師の非暴力直接行動に範を取りながらも、実際の運動では民青に接近していった。
 結果、「反執行部派の首(しゅ)かいとみなされたぼくはもう自由にキャンパスを歩くこともできない」(遺稿集P121)ところに追い詰められた。角材で頭を殴られ7針縫う怪我を負ったこともある。
 
 「私の一つのユメ。ささやかなユメ。それは今一度、書物をこわきに、たそがれのスロープを、ハナ歌まじりに(できたら讃美歌の方がいい)、のんびりと上って行くことだ。そして読書室で、一時間ばかり書物を開き、友と談笑し授業を受けるんだ。授業はM先生か、O先生のそれだったら、とくにいい!」(P155)
 文学部キャンパスには名物のスロープがあった。山村さんは一人の学生としてキャンパスで授業を受けることもできなくなったのである。
(山村さんは山登りも好きだった)

(つづく)