ウクライナ軍のロシア領攻撃によせて

 今月6日、ウクライナ軍が奇襲攻撃をかけ、ロシア領内クルスク州へ越境、東京23区の面積のおよそ2倍にあたる1263平方キロメートルの地域と、92の集落を制圧し、今も進軍を続けている。ロシアは完全に不意を突かれ、効果的な防御ができていない。

 この越境攻撃はもちろんロシアのウクライナ侵攻と異なり、自衛権の範囲内の作戦だが、ゼレンスキー大統領は「侵略者(ロシア)の領土に緩衝地帯を作ることがクルスク州での我々の作戦だ」(18日、SNSに投稿したビデオメッセージ)と述べた。

 この他にも作戦の目的については、ウクライナ東部のロシア軍を移動させる、投降したロシア兵を捕虜交換に使う、クルスク原子力発電所または欧州への天然ガス輸出の関連施設を占拠するなどさまざまな憶測がある。しかし、おそらく本当の目的は緩衝地帯を作ることや軍事的な目標を達成することよりも、むしろ政治的なものだろう。

 一つには、ロシアの核使用の脅迫に怯え、ウクライナに「ロシアを過度に刺激するな」と自制を求める欧米の態度を変えさせることだと思われる。

ゼレンスキー大統領は、外交官らに対し「われわれは重要な概念の変化を目の当たりにしている」とし、一部のパートナー国がロシアの「レッドライン」と考えてきたものが足元で「崩壊している」と主張したウクライナは欧米が供給した兵器の使用制限によりロシア軍関連施設を思うように攻撃できずにいるとし、同盟国に対し、ウクライナ支援の方法についてもっと「勇敢に」決断するよう訴えた。」(19日 ロイター)

「ロシアを弱体化させるのを妨げている障壁をパートナー国が取り除くことが重要だ」(17日)(NHK国際報道より)

 ロシアの核使用の「レッドライン」に怯えるなと言うのである。ウクライナはこれまで、欧米から支援した兵器でロシア領内を攻撃することを禁じられ、いわば手足を縛られたまま、ロシア軍の攻勢に受け身に立たされてきた。5月、欧米は、ロシア軍のハルキウ侵攻に際して、制限付きでのロシア領内への攻撃を認めたが、ウクライナは自らが軍事的な主導権を握れることを示して、さらなる使用制限の緩和をアピールしたのだ。

 今回の攻撃は、アメリカにも事前通告されなかったようで、米政府高官は相次いで「懸念」を表明している。

カービー大統領補佐官は23日、記者団に対し「どのような影響をもたらすかは時期尚早で分からない。しかし、われわれは懸念している」と述べ、こうした攻撃がロシアを刺激し、戦闘の激化につながる可能性もあるとして、懸念を示しました。

 また、欧米が供与した射程の長い兵器の使用制限を撤廃するかどうかをめぐって、カービー補佐官は「ウクライナと協議しているが、新たな方針が決まったわけではない」と述べるにとどめました」(24日、NHKニュース)

別の米高官も「懸念」を表明。(NHK国際報道より)

 いま、今後の戦局を左右するウクライナ対米国の「かけひき」が進行中のようだ。ウクライナは主体的に戦うことによって欧米の軍事支援のあり方に「ゆさぶり」をかけているのである。

 ここでゼレンスキー大統領のもう一つのコメントに注目したい。

 「ゼレンスキー大統領は22日、クルスク州への越境攻撃とロシアが進軍を続けるウクライナ東部での防衛がウクライナの独立という条件の下で戦争を終わらせる」道筋の一部と述べた」(22日、ロイター)。

 秋のアメリカ大統領選でトランプ氏の当選となった場合も睨んで、ウクライナとしては交渉に有利な状況を作っておく必要があったのではないか。

 ウクライナ大統領府長官顧問のポドリャフ氏は、「(ロシアとの)交渉が可能になるのは、戦争の負担が増え続けることをロシアが認識したときだけだ」と語る。将来の戦争終結を視野に入れた作戦であるとすれば、ウクライナ軍のロシア領の占拠は長引くだろう。
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 TBSの「サンデーモーニング」に日本文学研究者のロバート・キャンベルが初登場。ウクライナ軍の越境攻撃に、ウクライナの人々はこれで戦意が高揚しているわけではない、などと発言していた。

サンデーモーニング

 キャンベル氏といえば、去年出版された『戦争語彙集』(オスタップ・スリヴィンスキー (著), ロバート キャンベル (著, 翻訳)岩波書店、2023年)が注目された。これは、ウクライナの戦争避難者の証言から、戦争の体験が言葉の意味を変えてしまったことを描いた文芸ドキュメントをキャンベル氏が翻訳、解説した本だ。

 この本の中に、キャンベル氏がウクライナリヴィウの大学で日本文学についての講義を行い、学生と交流する様子が描かれている。

 キャンベル氏が、作家、柳美里が書いたウクライナの学生へのメッセージを読み上げた。

《戦争は、問いを奪います。/人間を、一つの答えに追い詰めます。/あるいは、何故?という問いで行く手を塞ぎます。/戦争の最中にあるからこそ、文学作品を読み、語り、互いに問い掛け合うことが、重要なのだと思います。(略)》

 この「問い」という言葉について、一人の男子学生が質問した。以下、本から引用する。

 

 彼は注意深そうに言葉を選びながら、述べ始めました。

「問いはもちろん大事です。けれど今、わたしたちは圧倒的な、一方的な暴力にさらされています。生きるか死ぬかの瀬戸際にずっと立たされています。善い戦争というものはない、いつなんどきでも武器を捨てなさい、平和を第一に、そういうことなのか。そのような問答であるなら要りません。今は、そのことを問う時期ではないのです。先生(キャンベル)はさきほどから平和が訪れたらとか、「平和にならないと」とか、何度も口にしていますけれど、「平和」の代わりに「勝利」と言ってみていただけませんか。ふわっとした着地点の見えない「平和」では、むしろわたしたちの言語も文化も、私たちの生命すら脅かされかねないからです」

 彼は滔々と語り、席に座り直しました。柳さんが心を込めて書いてくれた言葉の一つひとつに間違いはなく、といって、男子学生に向かってわたくしは論駁する気が起きません。(P174~176)

 男子学生の質問は、ウクライナと日本の間の、戦争と平和に関する価値観の違いを鋭く突いていた。

 日本では「勝利」が「平和」に置き換えられる不思議な現象があることについては―

takase.hatenablog.jp

 

キャンベル氏はこれを現在どのように考えているのか、聞いてみたい。