朝鮮人虐殺の実態

 節季は白露(はくろ)に入った。昼夜の温度差が大きくなり、朝夕、草の葉に降りる露を白露という。きょうも記録的な暑さが続いているが、それでも収穫の時期が近づいてくる。   
 7日から初候「草露白」(くさのつゆ、しろし)。
 12日から次候「鶺鴒鳴(せきれい、なく)。
 17日からが末候「玄鳥去」(つばめ さる)。

 ブドウの季節だが、今年はまだ食べていないな。
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 関東大震災後の「朝鮮人虐殺は正当防衛だった」と主張する工藤美代子『関東大震災 朝鮮人虐殺の真実』。その「根拠」はといえば、流言をそのまま書いた震災直後の新聞記事しかないのだから、どうしても強引な決めつけが多くなる。

 工藤氏によれば、自警団などが殺したのは「襲撃計画を実行しようとした朝鮮人」に限られ、「何もしない朝鮮人」には危害を加えていないという。

 《何もしない気の毒な朝鮮人を「虐殺」するようなヒマは自警団にはありはしなかった。
 だが、誰からも強制されずに最後の覚悟によって自分たちの町内と家族の命を自分たちで護るという決意を持っていたのが大正時代の人々だった。
 命令がなくても崇高な覚悟―それは沖縄戦におけるいわゆる集団自決であろうと、自衛的殺傷であろうと同質である―があった日本人は自分で断崖から飛び降りたし、自分で手榴弾を破裂させたのではないだろうか。
 同じことがこの大震災でもいえるのだ。
 理由もなく「殺人事件」が実行された事実はない。ない事実は「嘘」ということである。
 朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きたのである。》(P135)

 要は、日本人は高潔な人々だから、無実の朝鮮人を殺すなんてひどいことをするはずがない、そうですよね、みなさん、ということだ。何の証拠も示さず、日本人の「崇高な覚悟」に酔いながら決めつけているにすぎない。

 ところで、この一連のぎくしゃくとした筆運び、手練れのノンフィクション作家が書いたとはとても思えない。やはり夫の加藤康男氏が執筆したのだろう。

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2018年11月、日本縦断中の石川文洋さん(右)が横網町公園に立ち寄ったときのスナップ。後ろに見えるのが東京都慰霊堂関東大震災の遭難者(約58,000人)の遺骨を納めるための霊堂だったが、東京大空襲の身元不明の遺骨も納めている。

 では、実際には何が起きていたのか、このさい、ちゃんと勉強しよう。

 まず、どんな流言蜚語がどのように出回ったのか。震災から時間がたった段階で「警視庁及び各警察管内における流言状況」がまとめられている。

 なお、地震の発生は9月1日11時58分32秒ごろだったが、最初に管内に流言が流布されたのは早くも揺れの直後、1日午後1時頃で、2日より3日にかけてが「最も甚だしく」、その種類も多様だったという。

 「本庁及び各署にて偵察関知せる、流言蜚語」を時間順に以下列挙する。

A)9月1日午後1時頃
 「富士山に大爆発ありて今尚大噴火中なり
 「東京湾沿岸に猛烈なる大海嘯(津波)襲来して人畜の死傷多かるべし」
 「更に大地震の来襲あるべし」

 同日午後3時頃
 「社会主義者及び鮮人の放火多し

B)2日午前10時頃
 「不逞鮮人の来襲あるべし
 「昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものなり
 「鮮人中の暴徒某神社に潜伏せり」
 「従来官憲の圧迫に不満を抱ける大本教は、其教書中に於て今回の大火災を予言せしが、今や其実現せられしを機として、密謀を企て、教徒数千名上京の途にあり」

 同日午後2時頃
 「市ヶ谷刑務所の解放囚人は、山の手及び郡部に潜在し、夜に入るを待ちて放火するの企(くわだて)あり」
 「鮮人約2百名、神奈川県寺尾山方面の部落に於て、殺傷、掠奪、放火等を恣(ほしいまま)にし、漸次東京方面に襲来しつつあり
 「鮮人約3千名、既に多摩川を渉(わた)りて洗足村及び中延附近に来襲し、今や住民と闘争中なり

 

 いきなり富士山が大噴火!!の流言。朝鮮人社会主義者、そして大本(おおもと)教と、「異端者」が敵とされる流言がさかんに発せられる。

 これ以降は、とくに「鮮人」関係の流言が、放火した、殺害した、井戸に毒を入れた、掠奪したとどんどん増えて膨大な数になり、内容が具体的になっていく。

 注目されるのは、2日午後6時頃の
 「鮮人等は予(かね)てより、或る機会に乗じて、暴動を起すの計画ありしが、震火災の突発に鑑み、予定の行動を変じ、夙(つと)に其用意せる爆弾及び劇毒薬を流用して、帝都の全滅を期せんとす、井水を飲み、菓子を食するは危険なり」という流言だ。

 朝鮮人たちは、将来、東京を全滅させる暴動の計画があったが、大震災でチャンス到来と、爆弾や毒薬などをもって行動に出たというのだ。このシナリオは、このあと、各地で捕らえられた朝鮮人が自供したとされるようになる。

 では虐殺はどのように行われたのか。
 軍が出動し、虐殺を主導した場合もあった。(以下『現代史資料6 関東大震災朝鮮人虐殺』より)

 当時の見習い士官だった越中谷利一氏の回想。

 「ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは、9月2日の時刻にして正午少し前頃であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて営門に整列するまでに所要時間僅かに30分しか与えられなかった。

 2日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令をしたのであるからさながら戦争気分!そして何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、(略)亀戸に到着したのが午後の2時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改めというのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように沸きおこる万才歓呼の声―国賊朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊は、これを劈頭(へきとう=最初の意)の血祭にして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。」

 「列車改め」とは、乗客チェックである。大震災で避難しようと列車は石炭の上まで人が乗っている状態だった。客を一人ひとり誰何して、朝鮮人と分かれば、何か具体的な犯罪を犯したわけでもないのに引きずり下ろされ、問答無用に次々と殺された。

 《理由もなく「殺人事件」が実行された事実はない》と工藤氏は主張するが、軍は取り調べも何もせずに朝鮮人と見れば「直ちに白刃と銃剣下に次々と」殺していったのである。
 そして、その殺害行為を見た日本人避難民から嵐のような歓呼の声が上がったというのだ。信じたくない非道の光景である。

 この越中谷氏が多摩川の向うで朝鮮人が暴動を起したとの報で出動した際のこと。

 「一隊の騎兵が月夜の街のなかを馬をとばせて川のそばに行ってみるといっこうに敵はあらわれない。しばらくしてから霧のふかい川のなかを人がわたってくる水音がきこえてまもなく人影があらわれる。そこで騎兵が一せいに発砲する。だが、敵は何の抵抗もしない。ただ悲鳴とともに倒れるだけだ。そして生きのこった『敵』もこっちの河原までようやくたどりつくと地に伏して無条件降伏する」

 戦時用の完全武装をした兵士が一斉射撃までしている。ここに偶発性は一切ない。もうこれは組織的、集団的虐殺というしかない。

 『資料』には一つの逸話が紹介されている。
 《当時兵隊は飯ばかり喰って、おかずの魚は喰おうとしなかった。なぜならば、東京湾に流し捨てられた朝鮮人の死体をくっているからイヤだ、というのである。》
(つづく)