統一協会と「赤報隊事件」―『記者襲撃』より

 統一協会と「赤報隊事件」(1987年5月3日の朝日新聞阪神支局襲撃事件)の関係については、元朝日新聞記者の樋田毅さんが『記者襲撃ー赤報隊事件30年目の真実』岩波書店)で詳しく書いている。

2018年岩波書店

 樋田さんは早稲田大学で1972年に起きた「川口君殺害事件」後の民主化闘争のリーダーで私は大学1年の時に彼に会っている。のちに朝日新聞の記者になった樋田さんは、事件後、新聞社から真相究明の特命を受け、時効になった現在も取材を続けている。
(樋田さんの早大時代のことについては以下を参照)

takase.hatenablog.jp

 

 樋田さんは「赤報隊事件」の犯行に関して、統一協会関係者を精力的に取材しており、『記者襲撃』の中心をなすのが統一協会が関係した疑惑である。

 まず、事件の直後すでに朝日新聞社では統一協会国際勝共連合(本では「α教会」、「α連合」)を重要な取材対象とすることにした。

 霊感商法について、朝日新聞、「週刊朝日」「朝日ジャーナル」が被害者救済に取り組む弁護士グループなどと連携して糾弾キャンペーンを続けており、それが「恨み」を買う可能性があったからだ。

阪神支局襲撃事件から3日後の1987年5月6日午前、朝日新聞社東京本社に「αきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」と書かれた脅迫状が届いた。ワープロ打ちされた「赤報隊」からの犯行声明文とは異なり、ルーズリーフの紙に赤いハンコのような文字を押して作成されていた。脅迫状が入っていた封筒には、散弾銃の使用済みの散弾容器二個も同封されていた。散弾容器は日本国内でライセンス生産されたレミントン・ピータース7.5号弾のものだった。阪神支局襲撃で記者二人を殺傷するのに使用された散弾は米国から輸入されたレミントン・ピータース7.5号弾。輸入品と国産品の違いはあるものの、両者は同じメーカー、同じ種類。しかも、この脅迫状が朝日新聞社に届いた時点では、阪神支局襲撃に使用された散弾がレミントン・ピータース7.5号弾であることは、新聞でもテレビでも、まだ報道されていなかった。封書の消印は「渋谷 62・5・5」。つまり渋谷郵便局で5月5日に取り扱われていた。当時、α教会の本部は渋谷区内の住宅街にあった。》(P135)


 朝日新聞統一協会の軋轢は、霊感商法だけではなかった。

政治団体のα連合は当時、全国各地で「スパイ防止法制定促進会議」を組織し、中曽根政権が進める国家秘密法制定を後押ししていた。これに対し朝日新聞は、国家秘密法が有事立法の性格を持ち、言論の自由への脅威であるとして反対の論陣を張り、スパイ防止法制定促進会議を支えているのがα連合であることを紙面で指摘した。(略)
これに対してα連合は86年12月下旬から87年1月末にかけて、連日のように朝日新聞東京本社の前に街宣車を繰り出し、朝日新聞社批判の街頭演説を重ねていた。》(P136-137)

 この間の1月24日には、「赤報隊」が朝日新聞社への銃撃事件を起こしている。

 その1か月後の87年2月26日付の消印で、朝日新聞東京本社と『朝日ジャーナル』編集部あてに脅迫文が書かれたハガキが届く。差出人はα連合となっていた。

 その文面は―
ソ連のスパイ朝日社員どもに告ぐ。俺たちはきさまらのガキを車でひき殺すことにした。(略)俺たちには岸元首相や福田元首相が付いている。警察は俺たちの操り人形だ。俺たちが何をしても罪にはならない。おまけに俺たちが殺すのは共産サタンで人間ではない。てめえらはバイキンだ。サタンだ。これはこの世にα教祖さま(原文では実名)のため共産サタンを殺すために生まれてきた。共産サタンを殺すことが俺の生きがいだ。俺はM16ライフルを持っている。韓国で軍事訓練を受けてきた。今にてめえら共産サタンを皆殺しにしてやる。だがその前にてめえらサタンのガキをひき殺してやる。(略)なんだったら社会部の記者のガキからやってやるぞ。てめえらのようなアカサタンを殺すのがおれたちの教祖さまから与えられた神聖な使命だ。必ず殺してやる。サタン皆殺しだ。」

 「共産サタン」など統一協会勝共連合がよく使う言葉が使われていて、これらの団体の関係者が書いた可能性があると樋田さんたちは考えていた。それにしても怖い文章である。憎しみが文面ににじみ出ていて、ほんとうに殺すつもりなのだろうと感じる。

 樋田さんの同僚のC記者は、統一協会を脱会した元信者の女性、福井美知さん(仮名)から、こんな話を聞いた。

 87年の3月半ばのこと―
大阪市淀川区西中島にあったビルに、霊感商法の各店舗で働く献身者(信者にかるために家を出た人)約100人が集められた。そこに、「対策部長」と名乗る男が現れ、「私が今月から関西の対策部長になった。大阪は特にマスコミが騒ぎ、ややこしい。だから、いずれ私が行くことになるだろうと思っていた」と切り出したあと、こう話した。
「サタン側にとっても、今は最後のチャンス。サタンはいずれ自分らが滅びることを知っており、最後のあがきをしている。この時点でサタン側に立っているのは朝日新聞共産党、(α教会への)反対派牧師、反対父母の会、弁護士などである。(略)」》
《さらに、「この大切な時に、神側を撃ってくる人たちに対し、たとえ誰かが霊的になって(使命感に燃えて=C記者による注)サタン側に立つ誰かを撃ったとしても、それは天的に見たならば当然許される」とも話したという。》

 事件を予告するかのように、文書の処分も行われた。

《この時期、α教会に関連した大阪の各店舗では、重要書類が「B倉庫」と呼ばれていた秘密の倉庫に移されていたという。福井さんは「連休明けに警察が入ってくるのではないかと言われていた。文書類を処分する「文の日」が頻繁にあった。4月後半から5月初めにかけての緊張感はものすごかった」と話した。5月3日の阪神支局襲撃事件の翌日、ホームにいた仲間の信者らは3月の対策部長の話を思い、「やっぱり撃たれたのか」と話し合ったという。》

 さらに、マイクロ部隊(マイクロバスに乗って各地を移動しながら物品販売や寄付集めをするグループ)にいた元信者、桜明美さん(仮名)からこんな証言を得た。

《5月3~5日の三日間、東京・八王子市にあった教団の施設で講習会が行われた。この講習会の二日目、つまり5月4日の朝会で、マイクロ部隊の中山隊長(仮名)が90人のメンバーを前に、「皆さん、関西で起きた朝日新聞の襲撃事件を知っているでしょう。実は、やったのは私の霊の親(α教会へ誘った人)なんです」と話したという。聞いていた人たちの中から拍手が起きたのを、桜さんは覚えていた。》(P141-143)

 統一協会は銃器との関係も深い。
 「赤報隊事件」当時、統一協会は全国で26店の系列銃砲店を持ち、その多くで射撃場も併設していた。統一協会は韓国で銃砲メーカーを経営しており、そこで生産したエアライフル(空気銃)を日本にも輸出していた。兵器製造はその後、別の企業に受け継がれ、現在も機関銃や戦車の部品などを製造しているという。

 統一協会の信者で射撃競技の選手もいて数人が全国大会に出場、入賞する実力者もいた。
 さらに、自衛隊員の信者3人も判明した。その中に佐藤恒次氏(仮名)がおり、アフリカで「義勇兵」として活動していた。樋田さんは彼の取材を試みる。

《佐藤氏はアフリカから帰国後、東京の右翼団体「大日本誠流社」に加入し、86年の参議院選挙には比例区で立候補し、落選していた。

 1987年秋、私は大日本誠流社の楠本正弘会長を通じて取材を申し込んだが、「本人が朝日には協力したくないと言っている」として拒否された。楠本会長への取材を重ねるうち、「どの男が佐藤なのかぐらいは教えてやろう」と言われ、大日本誠流社の東京・新橋駅頭での街宣活動に立ち会った。「あいつが佐藤だよ」という楠本会長の指差しに従い、街宣車上でマイクを握る日焼けして屈強そうな男性を確認した。演説を終えて街宣車から降りてくる佐藤氏を呼び止め、取材への協力を求めたが、彼は一言も答えず、一目散に雑踏の中へ走り去った。

 その後、佐藤氏は大日本誠流社から離れて消息を絶ち、僧籍を得て奈良県の小さな寺に籠っていたが、1990年1月29日、暖を取っていた練炭火鉢による一酸化炭素中毒で死亡した。「彼が事件にかかわっていた可能性はある」と話す兵庫県警幹部もいたが、佐藤氏の「事故死」を報じる小さな記事が朝日新聞の奈良版に掲載されるまで、長い間、消息不明だったため、本格的な事情聴取はできないままに終わった。》(P150)

 統一協会そのものの恐ろしさに加え、日本の権力者の名前を出し「警察は俺たちの操り人形だ」と豪語する脅迫状の内容が単なる戯言ではない可能性を感じるとき、その恐怖感はつのる。

 この組織と日本の政界、とくに自民党との関係、さらに行政や警察、司法などとの関係は徹底して追及されなければならない。これは真の意味での「国益」の問題である。

(つづく)