昨日12日の『産経新聞』読書欄に樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』(文芸春秋)の書評を寄稿した。
この本を読んで、あらためて半世紀前の川口君事件とその後の運動の記憶をたどった。
私が早稲田大学に入学したのは1972年(昭和47年)。11月8日、第一文学部(一文)の2年生、川口大三郎君が「革マル派」(日本共産主義者同盟・革命的マルクス主義派)に集団リンチを受けて虐殺された。
早大は革マル派の拠点で、学生自治会や早稲田祭を牛耳ることで莫大な資金を吸い上げていた。第一文学部(4500人)と第二文学部(2000人)は毎年一人1400円の自治会費を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派に渡していた。これだけで900万円超になる。
早稲田を支配するため革マルは日常的に「敵」とみなす学生や教員にキャンパス内で暴行し、登校できない学生も多かった。実は川口君事件の前にも、登校できなくなった学生、山村政明さんが文学部キャンパスの隣の穴八幡神社境内で焼身自殺している。
早大を暴力が支配した時代 - 高世仁の「諸悪莫作」日記 (hatenablog.jp)
革マルは川口君を「中核派のスパイ」だとしたが、実際は政治党派に属さない「普通の」学生だった。しかも川口君は、文学部自治会の部屋で殺されていたことが判明、私たち学生はこれに怒り、立ち上がった。川口君事件後の数か月は学生の「蜂起」だった。たぶん前にも後にも、少なくとも早稲田大学で、あれほど大衆的な激しい改革運動はなかっただろう。ほんとうに多くの学生が立ち上がった。
当時の私の日記には、級友たちと討論して事件に抗議するクラス決議をあげ、ビラに刷って配り、「暴力反対」を叫びながら自然発生的にデモ行進したことなどが書いてある。まさに「蜂起」という言葉にふさわしい盛り上がりだった。私の書いたクラス決議が毎日新聞の写真に写っていたなどとも書いてあったので、図書館で探したら、あった。(下の写真)
革マル派をリコールして新しい執行部を選ぶ学生大会が学部ごとに次々に開かれた。「革マル派」は全国動員をかけて阻止しようとしたが、我々学生たちが人数で圧倒し、素手でスクラムを組んではねかえした。
革マルが「インターナショナル」を歌うのに対して、私たちは早大の校歌「都の西北」を歌って団結を固めた。
学生たちの怒りは革マルだけでなく大学当局にも向かった。当局は革マルの暴力に目をつぶり、事実上容認してきたからだ。また、私たち学生から徹夜で追及を受けていた革マルを当局は機動隊を入れて助けた。
大学当局と革マルは裏でつながっているのでは、と多くの学生が思うほど、その癒着ぶりはひどかった。
各地の小中学校でいじめで自殺に追い込まれる児童・生徒が相次いでいるが、「いじめはなかった」と見て見ぬふりをする学校や教育委員会が、当時の早大当局に二重写しになる。また、水俣病が確認されたあとの国や県の患者無視の姿勢にも通じるかもしれない。
早稲田大学が革マル派との腐れ縁を絶ったのは、川口君の死から25年も経った1997年になってからだった。
学生たちの運動の先頭に立ったのが、私と同じ1年生の樋田毅さんだった。小柄で当時はヒゲをたくわえていた彼のアジ演説は「聞かせた」。左翼党派の政治用語は使わずに、分かりやすい言葉でじゅんじゅんとしかも熱く語りかける。「ヒゲの委員長」としてカリスマ的な人気があり、革マル派自治会を次々にリコールする運動の中心になった。
私は樋田さんと共通の友人がいたので、学部は違うが、一晩飲んで語り合ったことがあった。当時は、革マルの「エネミーナンバーワン」として狙われるなか、みんなの期待をかけられて大変だったろうな。
私も革マルの暴力と闘っていたが、民青系自治会のある法学部だったので革マルの暴力を受けたことはない。(一度だけ、一般学生と革マルとの小競り合いのとき、足で蹴られたが)
暴力追放の運動の盛り上がりを、革マル派は暴力でつぶしにかかった。運動の主要メンバーが次々に暴力により負傷し脱落していく現実に、暴力には暴力で対抗すべしとの主張が次第に支持を広げ、あくまで非暴力を貫こうとする樋田さんを追い詰める。敵の暴力から身を守るには「正しい暴力」が必要だとする主張が現れるのは、多くの非暴力による抵抗運動に共通する「生理」だろう。
運動が分裂しかかるなか、樋田さん自身が革マル派に襲われ、鉄パイプで重傷を負う。心身ともに傷つきながら、樋田さんは闘いの場から退場し、運動は挫折した。
私にも大きな敗北感が残り、あの運動を振り返ることをためらわせていたが、本書ではじめて当時を俯瞰できた。そして、現代のさまざまな課題に共通する普遍的な意味を見出せたような気がする。
この本を読んでいると、当時の樋田さんや私を含む学生たちが、私が取材したことのある香港やミャンマーで暴力に立ち向かった若者たちと重なってくる。
樋田さんは本書を、「不寛容に対して私たちはどう寛容で闘い得るのか」半世紀を経た今も考え続けていると締めくくっている。理性と非暴力がいかにしてむき出しの暴力を克服できるのか。これはいま世界に問われている課題でもある。