中村哲医師が見たアフガンの女性たち

 節季は「雨水(うすい)」。雪が雨に変わり、雪が解けだして田畑を潤すので、農作業の準備が始まる。

きょうも畑作業。朝は寒かったが陽光が春を感じさせた。

 19日から初候「土脉潤起(つちのしょう、うるおいおこる)」。眠っていた生き物ももうすぐ目覚める。24日から次候「霞始靆(かすみ、はじめてたなびく)」。春に出る霧が霞。3月1日から末候「草木萌動(そうもく、めばえいずる)」。新芽、新たな命が芽生えてくる。

 きょうは私の誕生日。古希になるまで、おかげさまで元気でいられたことを感謝。トルコ大地震の被災地で医療活動を行っている「国境なき医師団」にわずかだが寄付してきた。
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 先日、津波に襲われた大川小学校の遺族の記録映画を監督した、知り合いの映像ディレクターが新聞で紹介されていた。

 寺田和弘さん(51)で、制作した『生きる~大川小学校 津波裁判を闘った人たち』はー

《2011年3月11日に起こった東日本大震災で、宮城県石巻市の大川小学校は津波にのまれ、全校児童の7割に相当する74人の児童(うち4人は未だ行方不明)と10人の教職員が亡くなった。地震発生から津波が学校に到達するまで約51分、ラジオや行政防災無線津波情報は学校側にも伝わりスクールバスも待機していた。にもかかわらず、この震災で大川小学校は唯一多数の犠牲者を出した。この惨事を引き起こした事実・理由を知りたいという親たちの切なる願いに対し、行政の対応には誠意が感じられず、その説明に嘘や隠ぺいがあると感じた親たちは真実を求め、石巻市宮城県を被告にして国家賠償請求の裁判を提起した。彼らは、震災直後から、そして裁判が始まってからも記録を撮り続け、のべ10年にわたる映像が貴重な記録として残ることになっていく——》(映画紹介より)
 興味深い内容。観てみたい。

朝日新聞「ひと」欄

 『ひと』欄によると、《原点は「兵庫県立神戸高塚高校卒業」という経歴にある。卒業した4カ月後、この高校で、教諭が遅刻指導で閉めた校門に女子生徒が頭を挟まれ亡くなった。
 「在学中に僕らが声を上げていれば、彼女は死ななかった。黙っているのは加害者になることだ」と振り返る。》

 そういうことだったのか。

 寺田さんはかつて、所属する制作会社から、テレビ朝日サンデープロジェクト』に派遣されていた。私の会社「ジン・ネット」はサンプロの特集をメインの発表の場にしていたから、寺田さんとは一緒に特集を制作したり、親しくお付き合いをした。当時から優秀なディレクターだった。

 近年、私の知るテレビ・ディレクターたちが、どんどん映画を手掛けるようになっている。そのこと自体はいいのだが、テレビ番組制作の魅力の減退も、この傾向を招いている一因のように思う。そのことが心配だ。
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 タリバンというと「女性の人権」抑圧。このためにタリバン政権はいわゆる“国際社会”に承認されず、対アフガニスタン経済制裁も解除されない。これこそ、タリバンの邪悪さ、後進性、恐怖政治の象徴になっている。

 中村哲さんは「タリバンの時代が一番仕事がはかどった」と言い、女性への抑圧にはほとんど触れない。中村さんはアフガニスタンの女性問題をどう捉えていたのか。

 かつて『西日本新聞』に連載していたエッセイで、かなりまとめて書いているのを見つけて興味深かった。彼のアフガニスタンへの向き合い方の根本にかかわることなので以下紹介したい。

PMSが手掛けた分水路の開通を喜び、炎天下、足を水に浸して歩く女性。家畜のえさや焚きつけに使う草を頭に乗せている(2017年)西日本新聞

 講演やこの連載で「報告に女性が登場しない」とよく言われるが、述べにくいのには訳がある。
 2001年、米軍がアフガニスタンに進駐して間もなく、性差別の問題が盛んに論議された時期があった。女性の地位向上が叫ばれ、女子児童の就学率から職業まで見直され、「イスラムの後進性」が盛んに攻撃された。国連や外国NGO(非政府組織)は女性職員の割り当てを増やし、率先して範を垂れた。

 その直前までタリバン旧政権が女学校を禁止し、医師以外の女性の就労を制限していたからだ。折から性差別が世界的な問題になった時期だったので、権力を得て勢いに乗った外国勢のキャンペーンは凄(すさ)まじいものがあった。まるでイスラム教徒であることが悪いことであるかのような雰囲気さえ横行した。

 ●納得できる言葉

 我々(われわれ)PMS(平和医療団・日本)は「生命と水」を前面に掲げ、このような思想・文化方面の動きとは別の次元で動いていた。米軍進駐を経た後、多くの「アフガン復興」の主題は「物心両面における近代化」と言えたが、旧ソ連の侵攻(1979年)以来、当地で進められた近代化の実態を眺めてきた身には、どこかで見た光景に思え、素直に同調できなかったのだ。

 アフガン人にとってイスラム教とは人間の皮膚以上に密接なもので、生活の隅々までを律する精神文化だ。その中に女性の地位向上を肯定する考えがない訳ではない。外圧でなく、彼女たちが納得できる言葉で語られるべきだ。また、2000年の大干ばつ後に襲ったあの飢餓地獄の中で、時流に乗り、権力を背景に拳を振り上げることに快からぬものを感じていた。

 我々の作業地は、パシュトゥン(パターン)民族の世界である。パシュトゥンはアフガニスタン最大の民族で、人口2千万と言われ、パキスタン北西部にも1千万人が国境を挟んで住む世界最大の部族社会だ。少数山岳民族もいるが、圧倒的多数のパシュトゥンと共に一つの文化圏を成す。「ワタン(故郷=地縁)とカオミ(血縁)が社会の全て」と評されるほど、部族社会の様相を色濃く反映し、閉鎖的な農村は自治性が強く、実態は外部に伝わり難い。

 ●ブルカ排撃運動

 このパシュトゥン民族の女性の外出着が「ブルカ」で、顔付近に網目の窓を残した布で全身をすっぽりと覆う。厳しい男女隔離の掟(おきて)があり、日本では刑が軽すぎる婦女暴行は普通、死罪である。

 かつてパシュトゥン民族で構成されるタリバンが、この衣装を首都カブールで強制して物議を醸した。西側では「女性抑圧の象徴」として一大キャンペーンが張られて過熱、パリなどでは公園の彫像にブルカを被(かぶ)せて揶揄(やゆ)し、被り物一切が禁止された。だが実はアフガン東部の女性の伝統的な外出着にすぎない。

 元々「個人」や「自由」という考えはアフガン農村で薄かった。血縁・地縁社会の中で、いかに家族全体の安泰を図るかが関心事だ。男も女も、子供も、それぞれに役割を担ってその文化の中で生きていた。それを性急に変えようとした旧ソ連は反発を招き、大混乱を残して撤退した。一方、抵抗勢力を「自由の戦士」と呼び、大量の武器援助で内戦を泥沼化させた西側のマキャベリズム(目的のために手段を選ばないやり方)は、人道支援にさえ不信を招いた。

 ●水運びから解放

 カブールのような大都会を除き、多数の女性たちが自ら権利を求めて叫ぶことは少なかったと思う。物言わぬ農村女性にとって、最も過酷な労働は水運びである。炎天下、水がめを頭に乗せ、時には数キロの道程を一日中徒歩で往来する。泉があちこちで涸(か)れた現在、遠くの川まで行くが、濁流はすぐには使えない。大きな水がめに入れて一晩泥を沈殿させてから利用する。貴重な水は煮沸して料理や茶に使う。薪は高価なので、のどが渇けば川の水をすくって飲む。赤痢や腸チフスなど致命的な感染症も起こしやすい。

 我々が手掛ける用水路はこの水汲(みずく)み労働と感染症の危険から女性たちを解放した。用水路沿いの地下水位が上がり、涸れ井戸が悉(ことごと)く復旧し、木がのびのびと育つ。家の近くから何度でも水が汲め、育つ木々は薪を提供する。用水路事業を誰よりも支持したのは彼女たちだった。実際、作業中に近所の家から「母からです」と子供たちが茶を届ける光景がしばしば見られた。気軽に異性に話しかける風習がないので、主婦たちが子供を代役に感謝を表したのである。

 診察室で診療するとき以外、我々が彼女たちと親しく話す機会はない。おそらく、いつ実現するか分からぬ「権利」よりは、目前の生存の方が重要であったのだろう。必要なのは思想ではなく、温かい人間的関心であった。

 全ての者が和し、よく生きるためにこそ人権があるとすれば、男女差を超え、善人や悪人、敵味方さえ超え、人に与えられた恵みと倫理の普遍性を、我々は訴え続ける。

(2019年6月17日付)

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