元大使が語るアフガニスタンの「反近代」3

 先週土曜日、近所で中村哲医師の映画『荒野に希望の灯をともす』の上映会があり、アフタートークでお話した。

くにたち映画館(国立駅北口のアグレアブル・ミュゼ)にて


 こんな役目はおこがましいのだが、アフガニスタンの中村さんのプロジェクト現場を取材したことなどを報告した。

 中村さんの映画は各地で自主上映が続いており、どこもすぐに定員いっぱいになるという。とくに福島、広島、沖縄での観客動員数が多いと聞き、なるほどと思った。

 ペシャワール会の会員と支援者は、中村さんが亡くなった2019年12月時点での1万6千人が、現在では1万人増えて2万6千人になっているという。中村さんとその生き方を知りたい、そこから学びたいという人がますます増えている。これは一つの社会現象と言っていいだろう。
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 今月7日、友人のイタリア人ジャーナリスト、ピオ・デミリア(Pio d’Emilia)さんが病気で亡くなった。
https://www.facebook.com/piodem

 

特派員協会でゴーン元日産社長に質問するピオさん

 長く日本をベースにしてアジア報道に携わり、日本外国特派員協会の副会長としても活躍した。数々のユニークな取材で知られた名物記者だった。

 東日本大震災直後の原発事故の最中、Youtube南相馬市の窮状を訴えた桜井勝延市長のところに、最初に取材に駆けつけたのがピオさんだったという。日本のマスコミが記者の安全を優先して取材を控えるという歴史的汚点をつけた時である。

takase.hatenablog.jp


 お互いの取材を助け合ったり、飲みながら時事問題で意見交換したりして親しくなっていったが、実に率直でユーモアのある“いい奴”だった。享年68。

 私が最後に会ったのは、2019年10月に香港のデモを取材に行くといって当時の「ジン・ネット」のオフィスに来たピオさんに、催涙ガスよけのマスクとゴーグルを“餞別”として渡したときだった。

 21年の年末にはGOTOトラベルの“闇”を取材していると知らせてきたが、直後に私が会社をたたむことになってドタバタして以来、連絡をしていなかった。

 おもしろいジャーナリストがまた一人いなくなってとても寂しい。
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 元駐アフガニスタン日本大使の高橋博史氏は、アフガニスタンは部族社会の因習が残る独特の社会だと説く。だが、その秩序は内戦の無秩序の中で破壊されていく。

 1989年、ソ連軍が撤退すると政府とムジャヒディーン(イスラム戦士)との戦いとなり、92年4月、ムジャヒディーン勢力がカブールに政権を樹立した。アフガニスタンはここから無政府状態へと陥っていった。。以下、それを当時現場で見た高橋氏の『破綻の戦略』より引用。

「ムジャヒディーン各派の権力争いはアフガニスタン全土に拡大し、アフガン情勢は混迷を深めていた。(略)

 全国各地でムジャヒディーン各派の野戦指揮官たちが陣取り合戦を繰り広げていた。アフガン国内の道路は、それぞれの地域を根城にする各派の野戦指揮官がコントロールしていた。野戦指揮官たちは勝手に道路を封鎖して、鎖や綱を渡しただけの簡易な私的関所を設置した。」
ムジャヒディーン兵士らは「通行する人や車に銃口を突きつけ、通行料として金品を巻き上げていた。なかには麻薬でも吸っているのか、マシンガンの引き金に指をかけたまま、狂ったように怒鳴り出すムジャヒディーンもいた」

 首都カブールの「市内はいつどこから銃弾や迫撃砲弾が飛んでくるかわからない、戦火の真っただ中にあった。

 その戦火の中、老婆と女子供たちが、家財道具一切を積み込んだ荷車を押していた。必死に逃げ惑う彼らが関所を通り過ぎようとすると、ムジャヒディーンたちは無慈悲にも彼らを銃で脅し、荷車にある金目のものを強奪した。なかには女子供を差し出せと脅迫しているムジャヒディーン兵士もいた。市民に対する略奪、暴行は日常茶飯事だった。身代金目当ての誘拐、強盗、殺人も毎日のように頻発していた。」

 南部のアフガニスタン第二の都市カンダハールにも悲惨な状況は波及した。

 「カンダハールは昔から男色が盛んなところであった。略奪、暴行を働く無軌道な野戦指揮官たちは、道行く少年を誘拐し、強姦した。その道徳的腐敗と退廃に、アフガン人はソドムの世界が現出したと嘆いた。飢えた子供に食事を与えるために、その母は身売りした。(略)

 飢えた人びとは墓場を荒らして人肉をむさぼった。埋葬されたばかりの遺体を掘り起こし、その遺体から油を取って売買した。人骨を秤にかけて飼料として売買する人もいた。現地に住む私の友人は『アフガニスタンに暗黒の時代が到来した』と、顔を覆って嗚咽した。最悪の事態がアフガン社会を覆っていた」

人骨売買を報じる新聞の写真。パキスタンのフロンティアポスト96年12月11日

 そこに登場したのが、タリバンだった。

「その内戦に終止符が打たれるような出来事がカンダハール市郊外で発生した。1994年11月3日のことである。イスラーム神学生による武装蜂起は、瞬く間にカンダハール市を制圧した。その一カ月後の12月11日にはアフガン南部を支配下に収めた。あの暗黒の時代が終わりを告げたのである。悪逆非道なムジャヒディーン野戦指揮官たちは殲滅された。この事実は民衆の目に奇跡と映った。タリバーンの出現である」

 高橋氏も、”地獄“の混乱を終わらせたタリバンが国民の強く支持されていたとみている。

 タリバンは伝統的な慣習法、部族社会の掟にもとづいて秩序を回復していった。強姦には死刑、盗みには手の切断などの刑罰や、女性は全身を覆うブルカを着るなどの習慣を厳しく守らせることになったが、これは農村の伝統だったから、圧倒的多数の国民には特段新しいものではない。戦乱を終わらせ、秩序を回復してほしいという民衆の思いが、タリバンの台頭へとつながった。

 第一次タリバン政権が米国の侵略で崩壊して20年たった2021年、タリバンはふたたび部族の慣習法で社会の秩序を回復した。

 アフガニスタン国民が欧米から見れば「野蛮な」“反近代”を受け入れているのには理由があったのだ。