「タリバンはやや国粋的な田舎者」(中村哲氏)

 1月30日は、民俗学者宮本常一先生の命日で、恒例の水仙忌が国分寺市東福寺で執り行われた。 

愛媛の宮本常一を語る会から届けられた水仙と故郷の周防大島から送られたみかん「寿太郎」をお供えして

直接に薫陶を受けたお弟子さんたちを含めおよそ50人が参列した

 コロナのため去年、一昨年は中止で3年ぶりの開催。今回が43回忌で、50回忌まではやろうと、みな80代になったお弟子さんたちがいう。故人をしのぶ命日がこんなに長く続いているのは、宮本先生の業績のすばらしさに加えて、お人柄が大きいのだろう。

 実はアフガニスタンを理解する一つのカギが、宮本民俗学にあると思い立ち、もう一度学び直そうかと思っているところだ。これについては、あらためて書こう。
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 タリバンが邪悪な恐怖政治集団というイメージが欧米から発信されてきたが、実際にタリバンに接した人たちはそれをくつがえす。コリアンと親しく接している人はヘイトスピーチに染まったりしないのに似ている。

 中村哲医師は活動していた地域が伝統的なタリバンの勢力圏だったこともあり、彼らとの付き合いは長い。

 中村さんのタリバン評がもっとも率直に出ているのは、私が見た限りでは、米軍がアフガニスタンを攻撃しタリバンが政権を追われた直後に出た『ほんとうのアフガニスタン』(光文社、2002年3月)の次の箇所だった。


 講演会のあとの聴衆との質疑応答である。


Q:タリバン政権下のアフガニスタンでは宗教については戒律をきちんと守っていないと宗教警察のようなものに検挙され、弾圧されると聞いたのですが、実際は、どのような状況でしたか。

中村:これに関しては欧米の視点からのみの報道によって、実態がゆがんで伝えられてしまいました。じつは、カブール市を除くほとんどの地域は、簡単に言うと田舎、アフガニスタン全体が巨大な田舎国家と言っていいわけです。タリバンというのは、言い方は悪いですが、やや国粋的な田舎者の政権なのです。ということで、中には荒唐無稽な布告もありましたけれども、ほとんどが昔から農村で守られてきた慣習法をそのまま採用した。

 ただ、カブール市内だけは、かなり西洋化された街でありまして、昔は、ミニスカートが流行ったりということもあったのです。しかし、こういう西洋の風俗を身につけておったカブールの人たちというのは、ごく一部の特権階級の富裕層ということ。アフガン人でありながらアフガン人とは言えないような人たちであった。こういう人たちは、内乱とともに国外に逃れだして、そしてタリバンのイメージというのをつくりだしたという面もある。

 宗教的な布告も、ほとんどの貧民層と農村の人々にとっては、全く抵抗がなかった。なぜかと言うと、旧来の慣習法のままですから、以前の生活と変わりなく暮らせばいいだけの話です。

 たとえば日本人に、三回の食事のうち、一回は米の飯にしなさいというふうな布告を出すのに似ているわけですね。ブルカ着用でもそうで、ほとんどの農村の、これはペシャワールでもそうですし、あれは一種の女性の外出着です。普通の女性は必ずこれを着用しています。だから、ブルカ着用は可哀想というなら、日本女性の和服に欠かせない帯を、あんなに体をきつく締めて可哀想に、解放してあげなくてはという類の余計なお世話でもあったわけです。

 話が脱線しますが、現地で、欧米人や日本人がトラブルを起こすことのひとつに、女性が顔を出して歩き回るということがある。顔を出して歩くという行為自身が、特に年齢が若い場合は、「だらしのない女性」というふうに庶民には見られるのです。これはまあ、習慣ですからどうしようもない。そういうことをタリバンは都市の人にも強制したということは、問題がありましたけれども、99%の一般のアフガン民衆にとっては、ブルカを着る着ないなどというのは、問題にも感じていなかった。それよりも、安全に外が歩けて、ご飯が食べられて、安全な家庭で生活できるほうが、はるかに良かった。

 もっとも、宗教規制の中にも、ずいぶん荒唐無稽なものもあって、たとえば偶像崇拝を禁止しました。ペシャワール会のマークは、赤い三日月に、ハトのマークが付いている。「動物崇拝は偶像崇拝とみなされる」と、これに文句が出る。そのときどうしたかというと、タリバンの役人が苦笑いしながら「先生、ちょっと悪いけど、ハトの顔のところだけバンソウコウを貼って隠してください。それで、問題ありませんから」と。まあ、規制する側も、荒唐無稽だということを知っておったのです。

 テレビも宗教警察からは規制を受けていたということですが、これはこっそり見るのはだれも咎めない。第一、テレビなど高価で庶民には手が届かないし、電気がまともにあるところがない。それからラジオも表向き禁止でしたが、宗教法話を聴くために必要だという名目でなら聴ける。ということで、少しづつ開放政策に向かっておった時期ではあった。そのへんが報道されなかったということです。いずれにしても、規制はいろいろあったが、田舎にある慣習法を、そのまま御触れとして、これを徹底して国土を統一し、懸命に治安を守ったというのが実態じゃなかったか、というふうに私は思っております。

(『ほんとうのアフガニスタン』光文社2002年P149-151)