田口八重子さん拉致事件の謎4

 昨日23日、ある歴史的な裁判の判決がでた。

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(23日午後、東京地裁前)

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(23日NHKおはよう日本

 1959年から84年ごろまで、在日コリアンやその日本人配偶者など9万3千人が日本から北朝鮮に渡った、いわゆる「帰国事業」が行われたが、そこで「地上の楽園」などと、虚偽の宣伝(勧誘行為)で騙されて北朝鮮渡航させられ、出国を許されずに留め置かれた行為(留め置き行為)に対して5人の脱北した帰国者委が損害賠償を求めた裁判だ。

 これは朝鮮総連ではなく、北朝鮮政府を被告とする初めての裁判。そもそも北朝鮮政府を相手取った裁判などできるのか、日本が裁判の管轄権を持つのか、という根本的な問題をはじめ、注目すべき点は多かった。

 当日朝のNHKおはよう日本」で大きく扱ったこともあって、東京地裁には傍聴を求める人が多く集まり、抽選となった。

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(23日夜9時のニュース9)

 結局、20年の除斥期間を過ぎたという理由で、原告の請求は棄却された。しかし、画期的な成果もあったので、後日ここで報告したい。
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 ひさびさに北朝鮮関連の話題になったので、1月から途絶えていた田口八重子さん拉致事件の謎」の続きを書きたい。

 このブログで「つづく」としたあと、翌日から別の話になってもとに戻らないことが多く、「糸の切れたタコ」といつもお叱りを受けている。私のいい加減さに加えて、その日その時の移り変わる関心に引っ張られる「日記」=ジャーナルなのでご容赦ください。

 1月8日の「田口八重子さん拉致事件の謎」では・・・

《繁雄さんが調べ回った限りでは、失踪の理由や背景はほとんど分からなかった。
 しかし、実は当時、八重子さんに頻繁に接触していた人物がいたとの情報がある。そして、その人物は、北朝鮮がらみの他の重大事件に関わっていた。(つづく)》

takase.hatenablog.jp

 と、テレビの「CMまたぎ」みたいな、思わせぶりな終わり方をしたあと、その2(21日)、その3(22日)では、「李恩恵」に関する北朝鮮の説明の嘘と北朝鮮に渡ってからの八重子さんの消息について書いた。

https://takase.hatenablog.jp/entry/20220121

https://takase.hatenablog.jp/entry/20220122

 きょうは、「八重子さんに頻繁に接触していた人物」の情報を含む八重子さん失踪と北朝鮮への拉致ルートに関する謎から始めたい。

(なお、八重子さんは拉致される前に結婚生活は破綻しており、離婚届けを夫に届けていた。その事情をふまえ、このブログの地の文章では、できるだけ「田口」姓を使わないことにする。)


 大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キムヒョンヒ)の教育係、李恩恵(リウネ)が八重子さんだとの事実が表に出た1991年(平成3年)以降、八重子さん失踪の事情については大量の新聞、雑誌記事が出された。

 単なる憶測を載せた記事や噴飯もののトンデモ記事も多いなか、興味深く読んだのがジャーナリスト友納尚子さんの一連の報道だった。

 ここに紹介するのは、月刊『文藝春秋』の02年12月号に掲載された「あなたの隣の北朝鮮工作員~拉致に関与した土台人はまだ国内にいる?」だ。

 友納さんは「李恩恵と田口さんが同一人物であると警察が断定した平成3年から、折に触れ10年以上にわたって取材を続けてきた」(P168)ジャーナリストで、この記事は02年9月の小泉総理の訪朝のすぐ後に書かれている。これまでの田口八重子さん拉致関連の取材のいわば総まとめといえる。

 拉致された当時、八重子さんは1歳と3歳の子どもを抱え、池袋のキャバレー「ハリウッド」に「千登世(ちとせ)」という源氏名で勤務していた。その頃の彼女の生活は、池袋3丁目の3階建てアパートの自宅と店を往復するだけの地味な毎日だった。

 文春の記事は、そんな八重子さんの「日常に忍び寄った一人の男」、「宮本」という名の中年男を中心に以下書き進められていく。

《『宮本』は『ハリウッド』の常連客で、頻繁に田口さんを指名していました。黒縁の眼鏡をかけ、背が高くて、がっちりとした体格で、関西弁を話していました」(店の関係者)

 ある日、田口さんは男と一緒に車で東京・高田馬場ベビーホテルに突然乗り付け、「子どもを2,3日預かって欲しい」と言い残して、どこかに消えた。ベビーホテルに提出した用紙には、田口さんの勤務先の電話番号と、名前の欄には乱暴な文字で「ミヤモト」と走り書きされていた。

 一方、彼女は、失踪直前に会った友人にこう語っている。

「好きな人ができたの。その人と新潟に旅行に行くのよ。景色も良いし、思い出があるところだから楽しみにしているの」

 新潟の佐渡は、田口さんの母親の生まれ故郷である。彼女を誘った男は、やはり店の常連客だった、あの「宮本」だったのか。》

 八重子さん失踪に深くかかわっていそうなこの「宮本」なる男は、《本名を李京雨(79)という。彼は、本名の李京雨だけでなく、「宮本明」「宮本師明」「高明允」「金山」「李哲雨」「木村哲夫」と、分かっているだけでも七つの名前を使い分ける「北朝鮮の大物工作員」だったと記事は指摘する。

 

 いよいよ問題の人物が出てきたが、この男については後回しにして、まずは、八重子さんがいつ、日本のどこから、北朝鮮のどこに運ばれたのかを考えてみよう。これ自体、いまだ謎なのである。

 大きく三つの情報がある。
1)    日本人化教育のため、八重子さんと1年8カ月同居した金賢姫によると、八重子さんは北朝鮮東海岸の「清津(チョンジン)」に着いたと彼女に語ったという。

 二人で元山の海水浴場に遊んだ時、「李恩恵先生」(八重子さん)は、沖を見て涙ぐんでいた。そこで・・・

《私が近寄ると、彼女は何か悪さをして見つかった子供のようにすぐに目の端をぬぐい、自分のそんな心情を悟られまいとしたのだろう。「私が初めて北朝鮮の土を踏んだのは清津港だったっけね」と、とってつけたように言った。そして、「海を見ているといらいらした気分が晴れるような気がするの。いつまでもこの海辺をただ歩いていたいわ」と言った。》
金賢姫『忘れられぬ女』(文春文庫P229))

2)これに対して、北朝鮮が小泉訪朝のとき日本に対しておこなった説明は;
《入国経緯:工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた。辛光洙は関係がない。

 その後2006年8月の「実務者協議」で、北朝鮮は、八重子さんは西海岸の「海州(ヘジュ)」から入国したと日本側に通知してきた。

 北朝鮮の説明では、宮崎県青島海岸から出て、北朝鮮の海州に着いたことになる。

3)するとこれを打ち消すかのように、拉致されてすぐ、八重子さんと同じ招待所で同居した地村富貴恵さんから別の情報が出てきた。

拉致被害者田口八重子さんの北朝鮮の入国ルートについて、同じ拉致被害者の地村富貴恵さんが南浦(ナムポ)から入ったと本人から聞いた」と田口さんの兄飯塚繁雄さんに話していたことが分かった。16日、飯塚さんが記者会見で明かした。8月の日朝実務者協議で北朝鮮側は「海州(ヘジュ)から入国した」と説明していた。海州と南浦は同じ西海岸側にある。》(朝日新聞2006年9月16日)

 同じ西海岸でも南浦ではなく海州が上陸地点だったという。

 いったいどれが事実なのか。
(つづく)