ここ10年、20年の宇宙物理学や量子論の発展はすさまじく、毎年、ノーベル物理学賞の発表が楽しみだが、ことしは、ブラックホールに関する研究で3人が受賞した。
英オックスフォード大学のロジャー・ペンローズ博士(89)は、理論面での貢献で、アインシュタインの一般相対性理論で予言されていたブラックホールが実際に形成され得ることを理論で示した。彼は、車イスの研究者、故ホーキング博士とともに研究を進めていたので、もしホーキング博士が存命だったら、一緒に受賞したかもしれない。
他の2人、独マックスプランク研究所のラインハルト・ゲンツェル博士(68)、米カリフォルニア大LA校のアンドレア・ゲッズ教授(55)は、理論ではなく観測における貢献で、我々のいる天の川銀河の中心に、巨大ブラックホールとみられる超巨大質量天体を発見した。
ブラックホールの研究は宇宙物理学の最先端のテーマで、今回の受賞を機に、私ももっと勉強しよう。
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菅義義偉政権を「ブラックホール政権」と喝破したのが上西充子さん。
上西さんは、安倍政権でのごまかし答弁を「ご飯論法」と名付けた人だ。
(注)ご飯論法とは、質問に真正面から答えず、論点をずらして逃げるという論法。「朝ご飯は食べたか」という質問を受けた際、「ご飯」を故意に狭い意味にとらえ、(パンを食べたにもかかわらず)「ご飯(白米)は食べていない」と答えるように、質問側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす手法である。(wikipedia)
上西さんは菅政権での答弁を「チャーハン論法」と名付け、これはすでにニュースで報じられている。
エビチャーハンを作っていたのを玉子チャーハンに変えましたよね、という質問に対し、同じシェフが作っておりその点においてなんら変わりはない、と言っているようなもの。 https://t.co/v2CJF7zBeL
— 上西充子 (@mu0283) 2020年10月7日
言論での闘いはますます強まっている。
朝日川柳より
その理由「語らぬ」じゃなく「語れない」 (大阪府 遠藤昭)
相容れぬ人に目に物見せる癖 (福島県 柴崎茂)
国会では共産党の田村議員の質問、さすがの迫力。
今回の問題は安倍政権が行ってきた学問への介入の結果であり、科学者のみならず全ての人の言論の自由を脅かす事になると。田村議員の言葉が胸に響く pic.twitter.com/LMmYrUK33J
— EMIL@さっさと国会開け (@emil418) 2020年10月8日
さらに追及を。
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きのう、仏教では「死後の世界」は重要ではなく、どっちでもいい話と書いたら、こんな反論が・・
それはおかしい、仏教といえば輪廻転生が前提で、死んだあとの極楽・地獄を説いてるし、浄土系宗派では念仏を唱えれば、死後「西方浄土」に行けるというではないか。
こう理解してほしい。
仏教だけでなく他のあらゆる宗教にも、神話的・呪術的な部分が伴っている。
例えば、釈迦が生れてすぐ7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとか、十字架の上で処刑されたイエスが死後復活したとか、イスラム教では、神が月を真っ二つにしたあと再び元通りにしたとか・・。
こういう「おはなし」は、宗教を広めるために、民衆に「すごい!」と思わせるために作られたものであり、宗教のスピリチュアルな本質、核心にとってはどうでもいい部分だ。
よく、お釈迦様が母親のわき腹から生まれたなんてウソ、マリアが処女で妊娠するわけないだろと、ことさらに神話的・呪術的な「おはなし」をとらえバカにして宗教を批判したつもりになっている人がいるが、的外れなのだ。
輪廻転生は、仏教の発明ではなく、古代からインド社会で信じられてきた。
お釈迦様は、対機説法といって、相手の状況や性格などに応じて道を説いた。輪廻を信じている人にはそれがあるとして、別の人には輪廻を前提にせずに説法した。
医師が患者の病気に応じて薬を投与する「応病与薬」のようなイメージで、とにかくその人が治ればよいのである。現世の悩みが軽くなり、前向きに生きられるよう臨機応変に対応することが大事だと、お釈迦様は考えていた。そう私は理解している。つまり輪廻転生するかどうかも、どっちでもいいのだ。
死後の世界などのいわば「原理論」にかんしては、阿含経典(初期仏教の経典)のなかの「箭喩経」(箭(や)の喩えの経)が知られている。
サーヴァッティー(舎衛城)にマールンクヤプッタという哲学好きの青年がいて、出家したあとも、しきりに釈尊に議論を吹っかけていたという。
あるとき、《この世は常住であるか、無常であるか、この世は辺際(かぎり)があるか、辺際がないか。あるいは、霊魂と身体とはおなじであるか、各別であるか。また、人は死後には存し、かつ存しないのであるか、それとも、人は死後には存するのでもなく、存しないのでもないのであろうか》と釈尊に迫った。
何度聞いても答えてくれないので、かなりいらついて、「わたしは、世尊が、それらのことを、説いてくださらないのが残念である。不満である」、「説いてくださらなかったら、修学を拒否して、世俗に還ろう」とまでぶちまけている。
これに対して釈尊(世尊)は、
ある人が「厚く毒が塗られた箭(や)をもって射られた」らどうするかと問う。釈尊の答えは・・
わたしを射た者の身分が何なのか、クシャトリアなのかブラーフマンなのか、あるいはシュードラなのか、その者は背が高いか、低いか、村の人か、都会の人か、どんな弓で射たのか、箭の羽が鷲のか、鷹のか・・《「それが判らないうちは、この箭を抜いてはならない」といったとするがよい。それでは、マールンクヤプッタよ、その人は、それらのことが知られないうちに、そのまま命終しなければならないであろう》
というもので、それと同じように、
《世尊が『人は死後には存するのでもなく、存しないのでもない』とか説いてくださらないうちは、わたしは世尊の御許において清浄の行を修しないであろう」といったことするがよい。さすれば、マールンクヤプッタよ、それらのことが、わたしによって説かれなかったならば、その人はそのまま命終しなければならないであろう》と説いた。
そして、
《人は死後にも存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教えるのである》と問題はいま何をするのかだと言う。
つまり、釈尊が死後の世界を含む問いの数々を説かなかった理由は・・・
《それは、他でもない、なんの利益(りやく)もなく、清浄の行のはじめにもならず、厭離・離貪・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃にも役立たないからである。その故にわたしはそれらのことを説かなかったのである》(『阿含経典』3 ちくま学芸文庫 P57~67)
釈尊はメッセージば明快だ。
死後の世界があるかどうかなんて、どうでもいいことだから、今ちゃんと修行しなさい、と。
しかし、ふつう宗教の根本問題は死後どうなるかなのに、問題はどうでもいいとする仏教は、なんともユニークである。
いや、そもそも宗教ではないのかもしれない。