仏教は原理主義になりえない


 国立駅前の多摩信用金庫のショーウィンドーに「くにたち冬ものがたり」が展示され、私たちを楽しませてくれている。

 くにたち桜守代表、大谷和彦さんが中心の「トトロ実行委員会」が、駅前でも自然を感じてほしいと、季節ごとに木の実や葉っぱなど自然素材で作品を作り、ディスプレイしている。デザインから制作、ディスプレイまですべて手作り。よく見ると、大変な労力がつぎ込まれているのが分かり、感謝の気持ちがわいてくる。
 (大谷さんについてはhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20171126参照)

 人を喜ばせることが幸せ、と大谷さんは言っている。

 「幸福感を感じられないとあがいている人たちが、一番簡単に幸せになれる方法は、誰かを幸せにしてあげることなのです」(有田秀穂 脳生理学者―去年のビッグイシューのカルタより)
・・・・・・・・・・・・・
 金剛般若経」など般若系の経典を読むと、これは我々がふつう「宗教」と呼んでいるものとは違うのではないかと思えてくる。例えば「筏」の喩(たと)え。
 《汝ら比丘よ。わが説法を筏の喩えの如しと知る者は、法すらなおまさに捨つべし》
 私の説法を筏の喩えのように理解しなさい。言葉というものは、ほんとうに覚るための手段=筏にすぎない。大きな川を渡る時に筏は必要だが、渡ってしまえば筏はいらない。それに似て、迷いのこちら側から向こうの覚りの岸へと渡るに際しては言葉による教え(法)が手がかりになるが、覚ってしまえばもう教えにこだわる必要はない、捨ててしまってよい、というのである。(全講義P93~)

 《(略)「われまさに法を説く所有るべし」とす、と謂(おも)うことなかれ。(略)もし、人、「如来には説くところの法有り」と言わば、すなわち、仏を謗(そし)ることとなればなり。わが説くところを解(げ)すること能(あた)わざる故なり》
 「私(如来)は(特定の・実体的な)真理を説いている」と私が考えていると、言ったり思ったりしてはならない。なぜなら、もし、誰かが「如来は特定の真理・実体的な真理を説いている」と言ったら、実はそれは仏を謗ることになるからだ。私が説いていることをわかっていないからだ、と厳しく諌めている。(P251〜)

 つまり、「仏教の教えはかくかくしかじかである」と絶対視し押しつけてはならないわけで、「原理主義」的な仏教はありえないことになる。あらためて仏教(大乗仏教)は「宗教」というより、哲学であり、人の生きる道の探求なのだなと再確認した。

 ところが困ったことに、仏教を名乗る新興宗派に極端な原理主義的傾向がみられる。最近、たまたま知り合った人から「会いたい」と喫茶店に呼び出され、行ってみるともう一人知らない人も同席して、激しい「折伏(しゃくぶく)」を受けた。日蓮系の団体で、狂信的な表現と口ぶりに恐怖感さえ覚えた。彼らこそ仏を謗るもの、だろう。

 実は、「輪廻」や「死後の世界」という考え方さえ仏教には必要ないとお釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)が言っていたことを知って、ちょっと驚いた。
(つづく)