ブッダは心の医師

 明日から「小寒」(しょうかん)。旧暦では正月はこれからで、寒の入りだ。
 6日から初候「芹乃栄」(せり、すなわちさかう)、セリの生えはじめ。10日からが次候「水泉」(しみず、あたたかをふくむ)、地中で凍った水溶けて動きはじめる。15日からは末候「雉始雊」(きじ、はじめてなく)、キジのオスがメスにケーンケーンと鳴くころ。寒さの中、春の気配が少しづつ感じられる。
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 ブッダは、世界は常住か無常か、死後の世界はあるかないかなどを説かなかった。それは何の利益(りやく)もなく、覚りの役にもたたないからだという。それでは何を説いたか。
 「マールンクヤプッタよ、では、わたしによって説かれたこととは何であろうか。いわく〈こは苦である〉(略)〈こは苦の生起である〉(略)〈こは苦の滅尽である〉(略)〈こは苦の滅尽にいたる道である〉とわたしによって説かれた。」(P67)
 それらを説いたのは利益があり、覚りに役立つからであるとブッダはいう。
 ここで説かれているのは、有名な「苦集滅道」(くじゅうめつどう)である。人が一生にわたり経験する生老病死に代表される「苦」、「集」とは苦の原因である煩悩、「滅」とは煩悩を滅して覚りに達すること、「道」とはそのための修行の方法で、四聖諦(ししようたい)とも言われる。悩み、苦しみの原因をつきとめ、それを克服する方法を説いたのだ。

 さて、前回出てきた「輪廻」だが、これはお釈迦様(とりあえずブッダと呼ぶ)が登場するはるか前、古代インドですでに常識となっていた世界観で、一般庶民は輪廻を前提にして生きていたはずだ。
 ブッダは、人によっては輪廻を前提とした説教をし、別の人には輪廻など関係ないと語っている。その人に合わせた対機説法(教えをきく人の能力・素質にふさわしく法を説くこと)である。
 ブッダは、人間はみな「無明」という「病気」にかかっていて、これを治療しようとしたと解釈してよいと思う。その治療は一律ではなく、患者と病状に応じて適切なものを選ぶ。すべては方便なのである。方便というと「嘘も方便」、どんな手段をつかってもいい、みたいな悪い印象があるが、もとは仏教用語で「衆生を教え導く巧みな手段」「真実の次元に導くための便宜上の教え」という意味。つまり、原理原則が大事なのではなく、効果があればそれでよい。
 それは先日書いた筏(いかだ)の喩えに通じる。ブッダの教え自体が、川を渡る(=覚る)ための手段であって、川を渡ったら、筏のように捨て去ってよい。覚りまで行かなくとも、衆生の四苦八苦の痛みを少しでも和らげられればよいというのだろう。
 ブッダは心の医師と言ってもよいのではないか。