死後はどうでもいいとブッダは言った

 
きょうから仕事はじめ。

 駅への途中、ふと見上げると、モクレンの枝に蕾が。寒いけれど、春が静かに準備されている。

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 きょうは阿含経の話を。
 阿含経」という経典群は、アーガマ(伝承された教説)の音写で、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)の教えを弟子たちが何代にもわたって記憶し、それを文字化したとされる。岩波文庫中村元先生の『ブッダのことば』以下のシリーズはみな阿含経である。仏教経典の中では最も古いもので、小乗仏教上座部仏教)は阿含経だけを使う。
 お釈迦様の言動を忠実に伝えているから、後世の創作である大乗経典(般若経、浄土経など)より重要だという人がいる。しかし、阿含経には悪魔やブラフマンが登場したり、歴史的事実としてのお釈迦様の言動そのものでないことは明らかだ。また阿含経は、「犀の角のようにただ独り歩め」といった断片的な警句やエピソード集で、般若経の「空」などに見られる深い哲学的考察は含まれていないという。どっちが重要というものではないだろう。
 ただ、お釈迦様の言葉、言い回しの名残が阿含経に多く含まれていることはたしかなので、そこは興味深いところである。

 人は死んだらどうなるのかについて、お釈迦さまはどう言っていたのか。
 そりゃ、仏教なんだから、生まれ変わって輪廻すると言うのだろう。そう思っていると、意外にもお釈迦様の答えは、そんな無意味な質問には答えない、そんなことはどうでもいいというのだった。
 これは、箭(=矢)の喩えで知られる「漢訳 中阿含経の箭喩経」に出てくる。阿含経には珍しく哲学的な問答である。舎衛城(サーヴァッティー)の財務官の息子、マールンクヤプッタが世尊(お釈迦様)に議論をふっかける。

 マールンクヤプッタの心中に、つぎのような考えが生じた。
 「どうも、世尊は、これらの問題については、はっきりと説いてくださらない。捨ておかれて、答えを拒みたまう。すなわち、〈この世界は常住であるか、無常であるか。この世界は辺際(かぎり)があるか、辺際がないか。あるいは、霊魂と身体とはおなじであるか、各別であるか。また、人は死後にもなお存するのであるか、存しないのであるか。あるいはまた、人は死後には存し、かつ存しないのであるか、それとも人は死後には存するのでもなく、存しないのでもないのであろうか〉と。世尊は、それらのことをわたしのために説いてくださらない。わたしは、世尊が、それらのことを、わたしのために説いてくださならないのが残念である。不満である。」
 それで、彼は世尊に会ってそれらの問をすべてぶつけてこう言った。
 「もし世尊が〈世界は常住である〉とか、あるいは、〈世界は無常である〉とか・・(略)説いてくださったならば、わたしは、なお世尊の御許においてこの清浄の行を修しつづけるでありましょう。だが、もし世尊が、わたしのために、〈世界は常住である〉とも、あるいは、〈世界は無常である〉とも・・(略)説いてくださらなかったならば、わたしは、修学を拒否して、世俗に還るでありましょう。」
 答えてくれたら出家修行を続けるが、答えてくれないなら還俗(げんぞく)しますよ、と激しく迫っている。
 これに対して、世尊は、箭(や)の喩えで答える。
 「マールンクヤプッタよ、それは、ちょうど、人があって、厚く毒を塗られた箭(や)をもって射られたようなものである。すると、彼の友人・仲間・親族・縁者は、彼のために箭医を迎えにやるであろう。だが、彼は、〈わたしを射た者は、クシャトリアなのか、ブラーフマナなのか、ヴァイシャなのか、あるいはシュードラなのか、それが判らないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとするがよい。また、彼は、〈わたしを射たものは、いかなる名、いかなる姓であるか、それが判らないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。・・・(略)それでは、マールンクヤプッタよ、その人は、それらのことが知られないうちに、そのまま命終(みょうじゅう)しなければならないであろう。」
 世尊が彼の哲学的な問いに答えないのは、それと同じだという。役に立たないというのだ。
 「マールンクヤプッタよ、世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常なりとの見解の存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える。」
 マールンクヤプッタの問を世尊が説かれなかった理由は。
 「マールンクヤプッタよ、それは、他でもない、何の利益(りやく)もなく、清浄の行のはじめにもならず、厭離・離食・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃にも役立たないからである。その故にわたしはそれらのことを説かなかったのである。」(以上の引用は、『阿含経典3』ちくま学芸文庫P57〜67)
 死後のことなどどうでもよいというのだから、輪廻するかどうかなど、もちろんどうでもよいことになる。
 では、世尊は何を説いたのだろうか。
(つづく)