有本恵子さん拉致の全貌 6

 2002年9月17日、小泉純一郎首相が訪朝した。拉致問題が進展を見せることが確実視され、被害者家族は大きな期待を寄せた。

 小泉首相は、金正日国防委員長と「日朝平壌宣言」に署名した。このとき金正日は、これまで一切認めなかった拉致を一転、“特殊機関の一部が妄動主義・英雄主義に走って”行ったとして認め、謝罪した。

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 だが、首相一行が持ち帰ったのは、拉致被害者5人だけが生存し、その他は死亡または「不明」という残酷な結果だった。有本恵子さんとその夫とされた石岡亨さん、そして北朝鮮で生まれた子どもも死亡したとされた

 これは北朝鮮側が言っただけで未確認情報であったにもかかわらず、政府は確認された「事実」として家族たちに通知していたことが後に分かった。

 「死亡」とされた家族たちの悲嘆は大きかった。

 有本さん夫妻は、同じく「死亡」とされた横田めぐみさんの両親ともども、記者会見で悲痛な思いをコメントした。あの時は、取材していた私を含む多くの記者たちもみな「死亡」は「事実」と信じ、涙を流していた。

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 有本嘉代子さんは『恵子は必ず生きています』にこう書いている。

《「有本さんは亡くなっていました」

 福田官房長官から、あまりに短い、断定的な報告を受けた後、東京のホテルでは本当に一睡もできませんでした。恵子の死に際のことを考えたくないのに、想像してしまう。「見せしめの死」という言葉が、頭を離れませんでした。》(P131-132)

 国民から憤激の声があがり、政府は外務省の調査団を9月28日に派遣、北朝鮮からの説明を受けた。北朝鮮側が伝えてきた恵子さんに関する情報は―

有本恵子さん

朝鮮名:キム・ヒョンスク 女 1960年1月12日生

入国の経緯:
 1982年留学のため英国に出国。特殊機関メンバーの一人が接触、工作の過程で共和国に行ってみないかと言うと、一度行ってみたいと言ったことから、特殊機関が日本語教育に引き入れる目的で1983年7月15日平壌へ連れて行った。

入国後の生活:
 資本主義社会とは異なる制度の中で暮らしてみたいと言ったため、特殊機関は、彼女の意向に従い、入国後1年後から、石岡亨さんとともに特殊機関の学校で日本語を教えさせた。
 1985年12月27日、一緒に仕事をしていた石岡亨さんと本人の自由意思で結婚し、翌年娘を生んだ。娘の名はリ・ヨンファ。招待所で幸せな家庭生活を送っていた。

死亡経緯:
 1988年11月4日の夜、チャガン(慈江)道ヒチョン(熙川)市内の招待所にて寝ている途中、暖房用の石炭ガス中毒で子どもを含む家族全員が死亡。

遺骨:家族と共にヒチョン(熙川)市ピョンウォン(平院)洞に葬られたが、1995年8月17日から18日の大洪水による土砂崩れで流出。現在引き続き探しているものの発見に至っていない。

 死亡が1988年11月4日となっている。石岡亨さんが密かに書いた手紙が札幌の実家に届いたのが同年の9月6日。嘉代子さんは、石岡さんが禁を破って、外部と通信したために殺されたのかとはじめは思ったという。

 しかし、届けられた「死亡確認書」は、恵子さんの生年月日を石岡亨さんのものと取り違えて記入してあるなど、いい加減なもので、北朝鮮は後に、書類は捏造したものであったことを認めたのだった。

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死亡確認書

 さらに石岡さんと一緒に拉致された松木薫さんのものとされる遺骨を調査団は持ち帰ったが、その骨を鑑定した日本の専門家は「60歳くらいの女性の骨」との見立てを明らかにした。北朝鮮の「死亡」説明には他にも多くの矛盾点が見付かり、「死亡」の根拠はないと言わざるをえない。事実、未だに一件も死亡の証拠を北朝鮮側は示せていない。

 有本嘉代子さんが、帰国した拉致被害者から聞いた恵子さんの目撃情報が一つだけある。

 曽我ひとみさんが、ジェンキンスさんと平壌の外貨ショップ「楽園百貨店」に買い物に行った。同行したのがジェンキンスさんと同じく元米兵のパリッシュさんとレバノンから拉致されて彼と夫婦になった女性シハームさん。(写真後列右の女性)

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 二組のカップルが電化製品売り場に来たとき、ラジカセを見ている一人の女性がいた。するとシハームさんが彼女に話しかけ、親しげに英語で会話しはじめた。

 別れた後、ひとみさんが「あの人、誰?」とシハームさんに聞くと、「ロンドンから連れてこられた日本人だ」という。なぜ彼女を知っているのかと聞くと、シハームさんが「平壌産院」で男子を出産したとき、その女性も同じ産院で出産のため入院しており、知り合ったのだという。

 曽我さんは帰国後、有本恵子さんの写真を見て、この時のことを思い出したそうだ。シハームさんが出産したのが87年4月で、外貨ショップでの遭遇は6月だったという。

 88年の手紙に同封されていた写真の赤ちゃんは1歳前後に見えるが、この出産時期とは整合する。

 また、曽我ひとみさんによると、その女性はメガネをかけていたという。実は、恵子さんは近視で、日本ではコンタクトをしていたとのことで矛盾しない。

 その女性は男性と一緒だったが、ひとみさんはその男性が石岡さんだったかどうかは分からないという。

 この目撃証言は、時期からいって北朝鮮の「88年死亡」説を覆すものではないが、娘の北朝鮮でのリアルな姿をひとみさんが話してくれて、心が和らぎ、希望をもつことができたと明弘さんは言う。

 きょう14日、被害者家族会の飯塚繁雄代表(81)や有本明弘さんらが安倍首相と面会して、拉致問題の一日も早い解決を訴えた。

 政府認定の拉致被害者の親7人が、子どもと再会を果たさぬまま亡くなってしまった。いま存命なのは91歳の明弘さんと横田滋さん(87)と早紀江さん(84)の3人だけだ。

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娘との再会を願って嘉代子さんは30年以上運動してきた

 有本嘉代子さんが逝去され、拉致問題の報道に関わった一人として、まだ解決できていないことを申し訳ないとの思いを抱く。ご冥福を祈るとともに、あらためて拉致問題の早期解決に微力を尽くしたいと思う。