有本恵子さんのお母さん、有本嘉代子さんが亡くなった。
2年ほど前から体調を崩していると聞いて心配していたが、ついに恵子さんに会うことはかなわなかった。残念だ。ご本人は死んでも死に切れない思いだったろう。
《北朝鮮による拉致被害者の有本恵子さん(失踪当時23)の母親、有本嘉代子さんが2月3日午後3時23分、うっ血性心不全のため神戸市内の病院で死去した。94歳だった。告別式は近親者で行った。喪主は夫、明弘氏。
恵子さんは神戸市外国語大生として英ロンドンに語学留学中だった1983年、デンマークのコペンハーゲン経由で北朝鮮に拉致されたとされる。88年には拉致被害者の石岡亨さん(同22)の実家に、石岡さんの手紙とともに恵子さんの写真や直筆の書類が届き、北朝鮮にいることが判明した。
嘉代子さんは明弘さんとともに拉致被害者家族会で活動。全国各地で講演や署名活動に取り組んだほか、2004年には手記「恵子は必ず生きています」を出版するなど、被害者の早期帰還への協力を呼びかけてきた。最近は体調を崩し、入院していた。
明弘さんは6日、支援団体の「救う会兵庫」を通じて「北朝鮮に拉致された恵子を取り戻すために嘉代子と二人三脚で頑張ってきましたが、妻は力尽きてしまい今は全く気持ちの整理もつかない状態です」とのコメントを出した。》(日経)
きょう資料を整理していたら、この写真が出てきた。
2005年12月、拉致問題の集会に合わせ、1978年に北朝鮮に娘を拉致された娘を取り戻したいというレバノン人女性、ハイダールさんが来日した。
来日を提案したのが私だったので、通訳も同行して2人分の渡航費、滞在費(12月12日から23日まで)をジン・ネットで負担することになった。本当はこういうとき、政府の拉致問題の対策費で支援してくれるといいのだが・・・
日本到着翌日、ハイダールさんは神戸に向かい、有本恵子さんの実家を訪ねた。そして嘉代子さんと、同じ母親として一緒に闘いましょうと誓い合ったのだった。
北朝鮮による日本人拉致は、1997年2月に横田めぐみさんの拉致情報が注目を浴び、家族会が結成されるまではほとんど知られることがなかった。
ところが、有本夫妻はそれ以前の1988年から、警察や外務省、政治家の事務所に通い、娘、恵子さんの救出を訴えてきた。
最も早く活動をはじめた拉致被害者家族だったが、当時はマスコミも含め、どこもまともに対応してくれず、夫妻はまさに孤軍奮闘してきたのである。
嘉代子さんはいつも夕食の食卓に恵子さんの陰膳を供えていた。娘に会いたいという親心に切なくなった覚えがある。
37年もの闘い、ほんとうにごくろうさまでした。心よりご冥福をお祈りします。
有本恵子さんの拉致は、拉致の顛末がもっとも詳細に判明しているケースで、拉致という国家犯罪の残酷な実態がよく分かる。次回から連載で紹介したい。
(つづく)