1988年に札幌に届いた一通の手紙は、欧州で行方不明になった3人の日本の若者たちが北朝鮮にいることを伝えていた。
1980年に行方不明になった石岡亨さん(当時23歳)と松木薫さん(当時26歳)、そして1983年にコペンハーゲンで消息を絶った有本恵子さん(当時23歳)である。
この手紙には奇妙な特徴があった。
縦横に折り目がついていて、折りたたむと大きめの切手くらいになり、掌に隠すことができる。
手紙には英文で、Please send this letter to Japan (our address is in this letter) ―この手紙を日本に送ってください(住所は手紙の中にあります)―と書いてあり、さらに家族にあてて、「この手紙を送ってくれた方へ、そちらからも厚くお礼をしてくれます様御願いします」と頼んでいる。
切手と消印からは、ポーランドで投函されたことが分かった。(のちに、石岡さんから平壌で手紙を託された人物も判明した)
以上からこんな推測が可能ではないだろうか。
なんとか生きていることだけは家族に知らせたい。だが、日本への連絡はとうてい許されない。手紙を書いて外出するときは掌に隠し持っていた。平壌を訪問中の外国人に接触したチャンスを待ちながら・・。
「事情あって、欧州に居た私達は、こうして北朝鮮にて長期滞在することになりました」
これ以上は書けないというギリギリに抑制された表現。この手紙は命がけで書かれた3人の「生存証明」だったのではないか。
石岡さんと松木さんは、「よど号」犯の妻たちによってスペインからオーストリアのウィーンへの旅行を誘われ、その後「共産圏」を経て北朝鮮へと渡っていた。
では、有本恵子さんは誰がどのようにして北朝鮮へと連れて行ったのか。
2002年3月12日、東京地裁104号法廷でその謎は解き明かされた。
そこで開かれたのは、「よど号」犯の妻、赤木(旧姓金子)恵美子の第3回公判。彼女は前年に帰国すると同時に逮捕され、旅券法違反などの容疑で起訴されていた。
旅券法違反とは「北朝鮮工作員と認められる人物と接触する等の海外における行動にかんがみ」、「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行動を行なう虞(おそれ)があると認めるに足りる相当の理由がある者」(1988年8月6日付け官報)として出されていた旅券返納命令に従わなかったことを指す。
1988年の時点で、捜査当局はすでに「よど号」グループが北朝鮮の秘密工作に深く関与していた事実をつかんでいたことを示している。
この日証言に立つのは、同じ「よど号」犯の妻として、赤木恵美子のかつての同志だった八尾恵(やお・めぐみ)。
八尾はすでに前年、『週刊新潮』に載せた3回の手記で、「よど号」犯とその妻たちが日本人拉致に直接に関与したと暴露し、家族会はじめ関係者に大きな衝撃を与えていた。
警察と検察は、01年9月の赤木恵美子逮捕から十数回にわたり「参考人」として八尾を聴取。同年12月23日、八尾は恵子さん拉致に自分が関わったと供述したとされ、彼女の立場は、赤木事件の「参考人」から有本恵子拉致事件の「被疑者」へと変わっていた。
八尾の法廷証言を翌日に控えた3月11日、警察庁が有本恵子失踪事件の捜査本部を設置したことをマスコミがいっせいに報じた。テレビ朝日は、八尾が有本夫妻の足もとに土下座し、「恵子さんは私が拉致しました」と泣き崩れるスクープ映像を11日夕方ニュースから流し始める。八尾は3月2日に横浜のホテルで有本夫妻に会って謝罪しており、テレビ朝日はこれを独占取材していたのだった。
こうして3月12日の八尾の法廷証言には国民的な関心が寄せられ、傍聴席には、有本明弘さんと嘉代子さん、横田めぐみさんの両親の滋さんと早紀江さん、多くのマスコミ関係者、さらには「よど号」犯の娘3人(前年に帰国していた)まで姿を見せた。
当日の主要紙朝刊一面トップはすべてこのニュースで、「『有本さん、北朝鮮に拉致』/『よど号』メンバー元妻供述/警察庁が捜査本部」(朝日)などの大見出しが躍っていた。
肩まで長い髪をバレッタでまとめた八尾恵は、オレンジ色のスーツ姿で背筋をまっすぐに伸ばして法廷に入ってきた。歩きながら満席の傍聴席をゆっくり見回す。そこには「よど号」犯の子どもたちやかつての同志、「よど号」犯の支援者もいる。八尾の口元には、意外にも微笑みが浮かんでいた。
差し違える覚悟だな・・・私は彼女の表情を見てそう思った。
八尾はこの日、有本恵子さんの拉致に関わったことを告白したうえ、「よど号」犯とその妻たちによる日本人拉致工作の全貌を暴露した。
これは法廷における証言として高い信憑性が与えられ、この半年後の小泉首相の訪朝(02年9月18日)をはじめ、その後の拉致問題の状況全体に大きなインパクトを与えることになったのである。
(つづく)