有本恵子さん拉致の全貌 5

 有本恵子さんを北朝鮮に拉致したという、2002年3月の八尾恵証言の衝撃は大きかった。
 他ならぬ実行者本人が、偽証罪に問われかねない法廷の証人という立場で告白したのである。

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留学中の恵子さん(右)。妹さん(左)と

 その前の年、2001年には、金正男の不正入国事件(「ディズニーランドに遊びに来た」と説明)、朝銀信用組合(不正融資で次々に破綻し公的資金1兆円超がつぎ込まれた)の幹部の逮捕、朝鮮総連本部の捜索そして年末の奄美工作船沈没事件と北朝鮮がらみの騒動が続き、北朝鮮に対する世論は厳しさを増していた。

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2001年12月22日

 八尾が証言したその夜、小泉純一郎首相はこうコメントした。

 「ご家族の気持ちを思うと実にひどい事件だ。この拉致問題をいいかげんにして北朝鮮との国交正常化はありえない」

 4月11日、衆議院が、12日は参議院がともに全会一致で「日本人拉致疑惑の早期解決を求める決議」を採択している

 私たちが横田めぐみさんの拉致疑惑を報じ、家族会が作られてすでに5年も経っていた。今からは意外に思えるが、国会が拉致問題に関する決議を上げたのは、これが初めてだった
 
 「(略)最近、我が国の裁判所において証言がなされ、疑惑の詳細が明らかになりつつある。我々は、最愛の子や親・兄弟の消息を求めるご家族の方々の悲痛な叫びに、今あらためて心耳を傾け、この疑惑解決に真剣に取り組まなければならない。(略)

 拉致疑惑は、国家主権ならびに基本的人権・人道にも関わる極めて重大な問題である。(略)政府は、我が国と北朝鮮との国交正常化に向けた話し合いの中で、国民の生命・財産を守ることが国家としての基本的な義務であることに思いを致し、毅然たる態度により拉致疑惑の早期解決に取り組むべきである」(衆議院

 拉致問題の解決なくして日朝関係の正常化なし、という「毅然たる態度」で北朝鮮にのぞむ立場が、ここで確立したのである。

 その意味で、八尾証言は大きな画期となった
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 北朝鮮工作員にして「よど号」グループの指導員、キム・ユーチョルとコペンハーゲンから平壌に向かった有本恵子さんは、その後どうなったのか。

 これまで書いてきたように、恵子さんは、拉致された経緯ははっきりと判明している。しかし、北朝鮮に入ってからの消息はほとんど分かっていない。

 八尾は恵子さんとはコペンハーゲンの空港で別れたきり、北朝鮮では一度も会っていないという。彼女が知り得たのは、よど号グループから聞いたごく断片的な情報だった。以下は『謝罪します』より。

 《有本恵子さんは北朝鮮に来てから招待所に入れられ、水谷協子さん(注:よど号犯、田中義三の妻)が教育係としてそこに行っていました。

 有本さんは、しばらくして森さんがスペインから連れて帰った二人の男性達と会わせられ一緒に住むことになりました。田宮は、有本さんを男性のどちらかと“結婚”させようと思っていましたが思惑通りにはいかなかったようです。

 「うまくいかへんのや」と彼はぼやいていました。

 「三人で楽しくやっているみたいやぜ」と田宮は言いました。有本さんは、二人とは仲良しになったのですが、どちらかを選ぶことができないということのようでした。組織のルールで、私の方から組織の情報を聞くことは禁止されていたので、男性達の方から有本さんのことを喋ってくれない限り、その消息を知るすべがありませんでした。

 85年に赤木(注、よど号犯)が彼女と会ったと話したことがありました。

 私が、
「元気にしてる?」と聞くと彼は、
「ものすごく素直でいい子だ」と言いました。
 その後有本さんの消息は聞いていません。》(p286-288)

 推測できるのは、恵子さんは石岡亨さんと結婚し、子どもをもうけただろうということだ。1988年に札幌の実家に届いた石岡さんの手紙には、腹這いで微笑む赤ちゃんの写真が同封されていたが、二人の子どもだと思われる。

 横田めぐみさんは曽我ひとみさんや田口八重子さんと同居していた時期があったし、蓮池さん、地村さんらの家族と同じ「村」に暮らしていたこともあり、日本から拉致された被害者たちはきわめて特殊な環境ではありながら互いに「交流」があったのに比べ、恵子さんたち欧州で拉致された3人は彼らとの接点がほとんどない

(ただし、田口八重子さんが石岡亨さん、松木薫さんと短い時間会ったとの情報がある。また、曽我ひとみさんは外貨ショップで有本恵子さんを見たという。)

takase.hatenablog.jp

 また韓国に亡命した元工作員などが、横田めぐみさんたちは工作員養成所で日本人化の教官をさせられていたと証言しているが、3人に関してはその種の証言がない。

 これは拉致した工作機関の「系統」が違っているからかもしれない。

 横田めぐみさん、蓮池さん、地村さん、曽我さんなど工作船で運ばれた人たちの拉致は、労働党の工作機関のなかでも「調査部」と「作戦部」のチームで行なわれた。一方、恵子さんたちは、よど号グループを管轄していた労働党「連絡部」が拉致を実行したと見られる。

 同じ工作機関ではあっても、基本は縦割りの組織なので、拉致被害者も組織ごとに別々に管理されたのではないか。そして、連絡部所属のよど号グループが3人の「教育」の一部を担当していたようだ。

 有本嘉代子さんは1990年ごろ、北朝鮮にいるはずの恵子さんに宛てた家族の寄せ書きの手紙を、「仲介者」を自称するある人物に託している。(嘉代子さん著『恵子は必ず生きています』神戸新聞総合出版センター2004年)

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 その手紙は、当時よど号グループと交流のあった高沢皓司氏らによって、やや遅れて92年か93年に北朝鮮の田宮に手渡された

 田宮はこう言ったという。

 「ここには、ようけ日本人がいるんや・・・。どこに誰がいるのか、われわれでは連絡もつかない・・」(高沢著『宿命』P223)

 よど号グループが連れて来た日本人たちは、途中から田宮たちからも切り離されたというニュアンスだったと高沢氏は言う。
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 2002年9月、小泉訪朝が電撃的に発表された。

 有本嘉代子さんは、いよいよ恵子さんが帰国できると大きな期待を寄せた。
(つづく)