人間中村哲をつくったもの

 近くの公園にて。

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色彩のグラデーション

 紅葉の中、ツワブキサザンカが花をつけている。
 節気は大雪(だいせつ)。真冬の到来だ。
 初候「閉塞成冬」(そらさむく、ふゆとなる)が7日から。12日から次候「熊蟄穴」(くま、あなにこもる)。17日から末候「鱖魚群」(さけのうお、むらがる)。
    ヒグマがサケをくわえた木彫りを連想させる。海で大きくなった鮭が故郷の川に一斉に帰って産卵し、水しぶきを上げながら遡上する鮭に熊がかぶりつき、たらふく食べて脂肪を蓄え、冬眠に入る・・。

    季節の移り変わりを背景に、生態系が大きく循環していく。
・・・・・・・

 中村哲先生の生き方には、みな感銘し驚嘆するのだが、こういう人格がどうやって形成されたのか。私も不思議に思ってきた。

 私は数年前、アフガンの取水堰のモデルとした山田堰を取材したさい、中村さんにお会いしたのだが、腰が痛くて椅子に座ることもできないのに、それに全く頓着せず、笑って煙草をふかしている姿が印象に残っている。医者でありながら、自分の健康には関心がない。https://takase.hatenablog.jp/entry/20120804

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福岡県朝倉市の山田堰をバックに人と自然との関わりについて話していただいた2012年8月

 私心なく利他に徹するという、常人には無理に思えることが、中村さんはなぜできたのか。

 平和のために、人類の救済のために、などと大上段に使命を語る人ではない。

 きのう再放送されたETV特集でも、私は平和活動家ではない、人が故郷で食えるようになれば、結果として争いが少なくなる、という意味のことを言っていた。

 「『事実は小説よりも奇なり』という。アフガニスタンパキスタンに縁もゆかりもなかった自分が、現地に吸い寄せられるように近づいていったのは、決して単なる偶然ではなかった。しかし、よく誤解されるように、強固な信念や高邁な思想があったわけではない。人はしばしば己を語るが、赴任までの経緯を思うとき、生れ落ちてからの全ての出会い―人であれ、事件であれ―が、自分の意識や意思を超えて関わっていることを思わずにはおれない。」(『天、共に在り』P26)

 中村さんだけでなく、私たちも振り返れば、人、事件、場所などとの出会い、ご縁で進む道を決めてきたといえる。

 では、中村さんの人や事件との「出会い」にはどんなものがあったのか。

    人にとって、人生最初の事件は誕生であり、はじめに出会うのは家族だろう。

 「週刊文春」が追悼のため、2016年9月1日号の中村さんのインタビュー記事を再編集の上、公開している。幼少期の環境がおもしろい。https://bunshun.jp/articles/-/16860

 《私が子供の頃に暮らしていた福岡県若松市(現・北九州市)は、父と母の双方が生まれ育った土地でした。若松は遠賀川(おんががわ)の河口にあって、石炭の積み出しで栄えた町です。母方の祖父である玉井金五郎は、港湾労働者を取り仕切る玉井組の組長。父親は戦前、その下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業(なりわい)にしていました

 ちなみに、玉井組の二代目は作家の火野葦平です。彼は私の伯父にあたる人でしてね。彼が一族の歴史を描いた小説『花と龍』は、小学生の頃に映画化もされました。私は玉井家の実家にいることが多かったので、文筆業で一家を支えていた和服姿の伯父の姿をよく覚えています。

 生活の中心だった玉井の家は大きな邸宅でした。普段から労働者や流れ者風の男たちが行き交い、子供がうじゃうじゃといました。例えば私が兄だと思っていた兄弟が、よくよく聞いてみると従兄弟(いとこ)だった、なんてことも珍しくない。三世代、四世代が入り乱れて住んでいましたね。

 若松の家にいたのは、ほんの数年のことでした。私が6歳のとき、福岡市の近くの古賀町(現・古賀市)に引っ越したからです。後に聞いた話では、中村組の従業員が沈没船引き上げの際に亡くなる事故があったそうです。父は保証人倒れも重なり事業に失敗し、空き家になっていた昔の家に戻った。私はそこで大学を卒業するまで過ごしました。》

 中村さんの実家は「任侠」の家だった。

 『花と龍』は、中村さんの家族が実名で登場する実録小説で、読み出したら止まらないおもしろさだ。

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玉井金五郎(Wikipediaより)

 祖父の玉井金五郎(どことなく中村さんに風貌が似ている?)は、劣悪な労働条件で苦しんでいた沖仲仕(港湾労働者)を資本家の横暴から守るために、彼らを束ねて「玉井組」を作った。これは今でいうと労働組合に近い。(あの山口組も港湾労働者を束ねることで発足している)

 「玉井組」をつぶそうとした「会社」側のヤクザに狙われ、三十数か所の刃傷を受けたり死にそうになったりと血なまぐさい抗争を経ながら、「玉井組」は労働者の支持を集めていく。

 玉井金五郎は、体中に龍の入れ墨を入れていたそうで、これが『花と龍』のタイトルになっている。(以前書いたブログ記事はhttps://takase.hatenablog.jp/entry/20090908

 中村さんの祖父は「任侠の徒」、伯父は芥川賞作家。

 そして父親の中村勉はというと、戦前、共産党の非合法活動で逮捕された人物だった。家族には「任侠の徒」も、物書きも、左翼もいたのだ。
(つづく)