原発とジャングル2

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 近所の家の庭に咲いているこれ。ハナショウブらしい。深い青がいい。
 アヤメかハナショウブカキツバタか。見分けられなくて、ネットで調べるのだが、すぐに忘れて、毎年のように同じことを書いている。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20130522
 まったく進歩がない。私の脳みそは本格的高齢者だな。
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 ブラジル・アマゾナス州南部のジャングルの民、ピダハン。近代文明のもとに暮らす我々と異なるのは労働観だけではなかった。人間関係はどうなっているのか。
渡辺京二さんの「原発とジャングル」で解説、引用されたダニエル・L・レヴェレットの『ピダハン』(みすず書房)から紹介する。
 《結婚以前には、男女は気の赴くままに自由に交わる。同棲すれば結婚したものとみなされるが、既婚者同士が好き合えば(われわれの社会で不倫と呼ばれるケース)、ジャングルへはいって数日間出てこなければよい。戻って来てその二人が同棲すれば離婚が成立して新夫婦が誕生したものと認知される。棄てられた夫、あるいは妻は悲しんだり相手を探したりすることはあっても、騒ぎ(スキャンダル)にまでなることはない。しかも満月の夜の歌と踊りの際は、既婚者であろうと未婚者であろうと自由に交合する。まれには暴力沙汰も起こるが、「暴力が黙認されることはない」。
 エヴェレットはピダハンの人間関係が親密で、互いのことをよく知っているのは、「多くのピダハンが多数のピダハンと性交している割合がかなり高い」からではないかと考えている。彼らの婚姻制度は乱婚でもなければ一夫一婦制でもない。非常にフリーで取り替えの利く一夫一婦制、友愛と性愛がリゴリスティックに区別されないフリーな状態といえる。》(渡辺『原発とジャングル』P13-14)
 《アメリカ先住民の部族は伝統的に平等社会であるが、ピダハンもそうで集落に指導者はいない。集団の結束力は固いのに、公的な強制力は存在しない。》
 《実は、エヴェレットがピダハンのうちに見出した「ジャングルの民」の特性は、狩猟採集民に広く見られるもので、何も新しい発見ではない。「きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは、日々の必需品にかんする心配からまったくまぬがれており、生活を享受している」ような狩猟採集民の事例は、サーリンズの『石器時代の経済』に豊富に示されている。》(P15-16)
 要するに、エヴェレットの経験したジャングルの生活は、《権力と支配が存在せぬ平等社会であり、生きるための労働が最小限ですむ、というより労働と嬉戯がかっきりと区別されていない、成員の親和と幸福感がみなぎる社会だった。つまり、文明的装備が最小であるような一種のユートピアだった。》(P17)
 渡辺さんは、ここから、なぜ神話的伝承に、《人類の最古の状態を楽園として描き、以降の経過を堕落・劣化とみなすタイプが多いのか》の謎が解ける気がするという。
 《人類の原始には一種の楽園状態があったとする認識(それは原始共産社会というエンゲルスによる史的唯物論的措定にも反映しているのだが)は、狩猟採集時代の生存の安楽さ、平等性、被抑圧性のおぼろな記憶が、農耕開始後も長く保持されて来たことに由来すると考えておそらく誤りはあるまい。》
 こうして、意外にも、ジャングルの民の暮らしは「幸福感みなぎる社会」だったことがわかった。
 彼らの言葉には未来形も過去形もないという。人間の悩みは過去と未来である。過去がなければ後悔しない。未来がなければ不安がない。ピダハンにとって、あるのは「いま」だけ。これは幸せに違いない。
 では、戦後最大の思想家(吉本隆明)に「原発がいやならジャングルへ戻れ」と言われて、我々は本当に戻れるだろうか。戻れないはずである。
(つづく)