「逝きし世の面影」4

takase222010-01-24

こないだ護国寺に行った。
以前、葬儀や講演会で来たことはあったが、境内に山県有朋など明治維新の元勲の墓があることを初めて知った。大隈重信の墓もあった。(写真)
彼らは江戸末期に生まれながら、その「楽園」を否定する立場だったのだろう。
地震で、ハイチは壊滅的な被害を受けた。最貧国で、政府はまともに機能しておらず、死者は名前を確認されないまま、どんどん埋められて、人数もはっきりしないという。一部では暴動も起きているらしい。悲嘆にくれる人々の映像が痛ましい。
当時日本に来た欧米人が感じ入ったことの一つに、災害に遭ったときの日本人の振る舞いがある。我々のご先祖は、不幸に対して嘆き悲しむことなく、超然と対応する特別な資質を持っていたようだ。(ここでは、ハイチの人々を侮蔑する意図は全くなく、文明論として紹介している)
米国の生物学者モースは、大火事を見物に行ったさい、《僅かな家財道具類の周囲に集った人々》が《まるで祭礼ででもあるかのように微笑を顔に浮べていた》ことに驚き、《この一夜を通じて、涙も、焦立ったような身振りも見》なかったと書く。
フランス海軍のスエンソンは、横浜大火(慶応2年)の直後の様子をこう伝える。
《日本人はいつに変わらぬ陽気さと暢気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりはしなかった。持物すべてを失ったにもかかわらずである。・・日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である
明治22〜23年になるが、英国の詩人アーノルドは、大火事を二度目撃した。
《わずかな家財道具を運び出してしまうと、紅蓮の焔が自分たちの都市をなめ尽し、黒煙が空に巨大で奇妙な形の雲を生み出すのを、彼らはむしろ楽しんでいるように見える》。子連れの母親とか祖母とかが、道路に持ち出した箪笥の番をしているが、やおら《近くの家のまだ燃えている残骸から火をつけて、落着き払って煙草をくゆらすのである》
この肝の据わりようはどうだ。火事の燃え残りでタバコに火をつけるとは、まるで劇の場面のようではないか。
次は、明治8年に、商法講習所の教官として招かれた父について14歳で日本に来たアメリカの少女クララ・ホイットニー。翌年、大火事があり、彼女はそのあくる日、焼けた銀座を見物に行った。
《この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと務め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった》
火事は、日本橋から京橋にかけて一万戸を焼いたという。この火事現場を、東大医学部の基礎を築き、日本女性と結婚したベルツも訪れていた。彼の描写もクララと同じだ。
《女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの痕跡もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々を見た。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと困難にうちひしがれている男などは、どこにも見当らない》
日本は、外国人によって「微笑みの国」として描かれたが、自らが被災したときでさえ、微笑みは人々の顔に浮かんでいたのだ。その微笑みは「勇気と沈着」に裏付けられており、後に酷評される不気味な「ジャパニーズスマイル」とは全く別物だったに違いない。
ベルツはこう断言する。
日本人とは驚嘆すべき国民である》と。
(つづく)