気高い被災者たちに思う

takase222011-09-16

11日の情熱大陸の放送後は、次の番組(ガイアの夜明け)の追いこみで、毎日深夜帰宅になっている。
帰宅途中、虫がさかんに鳴いているのに気づく。見上げると、まん丸な月。
日中はすごい暑さだが、確実に秋になっていくのだなと季節を感じる。
うちのスタッフに石巻日日新聞の平井デスクから、月曜にサンマ船が入港したと知らせてきた。
ネットで日日新聞を見ると、記事が載っている。
《全国有数のサンマ水揚げ基地、女川港に12日、今季初めてサンマ船が入港した。震災の影響で初水揚げは例年より3週間ほど遅くはなったが、多くの買受人らは喜びの表情を浮かべ、場内は活気に満ちていた。(略)
 岸壁では、地元女川町や石巻市の買受人が待ち構え、魚体の大きさや質を丁寧にチェック。その後の入札では1キロ当たり200円―250円で取り引きされた。400円―500円だった前年の初水揚げのように、ご祝儀相場とはいかなかったが、同日は北海道花咲港で数十円で売買されていたことから、全国の相場を考えればまずまずの価格。大きさも「大」(160グラム以上)が6割を占め、脂の乗りも良い。(略)
 同市場は東日本大震災で岸壁が破壊され、周辺にあった多くの加工場も休業に追い込まれた。急ピッチで作業を進め今月に入ってから受け入れ態勢が整い、本格的な水揚げシーズンに何とか間に合った。》
http://www.hibishinbun.com/
数年前、はじめて女川のサンマを食べて、その旨さに驚いた。それからは、サンマといえば女川と毎年楽しみにしていた。
そういう縁から、私は女川の漁業復興に募金を続けている。娘がボランティアに行ったのも女川。受け入れ能力は例年の半分ほどだというが、あの壊滅した女川でサンマの水揚げか、と感慨深く読んだ。
ところで、番組への感想のなかで、被災者が支援へのお返しをしなくてはと思っていることに感動したというものがあった。
カキの養殖で知られた石巻市北上町を、日日新聞社の水産担当の秋山記者が取材しに行ったとき、漁師がこういう。
《仮設で暮しているんだけど、やっぱもう何つうのかな、いろんな支援。
寒いときにちょっとした服だったり、毛布だったり。
やっぱりね、あの時の気持は何かで返さなきゃ》
秋山記者「おいしいもの作って」
《結局うちらにできることって、そんなことしかできねえから》

私もこのシーンに一番感じるものがあった。
自分も東北出身なのだが、東北人ってすごいなと思った。いや、日本人がすごいらしい。
江戸から明治初期にかけて日本に滞在した外国人が、災害にあった日本人の姿に驚嘆したことは震災の翌日のブログで紹介した。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110313
きょう、『復興の精神』(新潮新書)の大井玄さんのエッセイを読んでいたら、明治9年、東大医学部のお雇い教師として招かれたベルツの日記(岩波文庫)から、1万戸以上が焼けた東京の大火事(明治9年11月末)の目撃談が引用されていた。
《まず何よりも、比較的静粛なのに驚いた。わめき騒ぐ声もしなければ、女、子供の泣き叫ぶ声もせず、第一そんな連中の影すら見えなかった》(火事直後)
翌日にはすでに復旧の模様が記されている。
《日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから36時間たつたたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。((略)
女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと災難にうちひしがれている男などは、どこにも見当たらない》
これは、さきのブログに引用したアメリカ人やフランス人の火事目撃談と瓜二つで、みな、日本人の沈着にして冷静、規律正しい行動に心底感心している。
今回の震災で、外国の報道が日本人の振る舞いを称賛したが、その振る舞いは、どこかからふってわいたものではなく、その素晴らしい資質を、先人から脈々と受け継いできたのだ。つまり、日本人は昔からすごかったのだ。
歴史を振りかえって希望を得ることができる日本人は、実に幸運だと思う。
でも、これほど素晴らしい国民が、なぜか貧困な政治しか持てない。
この理由については、別の機会に書こう。