「ぼけ」と幸せ 6

痴呆は自然な老衰のグラデーションの一つだなどというと、痴呆老人の介護の大変さを分っていないのではとの疑問を持たれるかもしれない。だが、かく言う大井さんは、痴呆老人の臨床経験も豊かで、家族の大変さも知った上で論じている。
痴呆で問題になるのは、妄想、幻覚、夜間せん妄、徘徊などの「周辺症状」だ。これは社会的、文化的な要因が大きいことが分っている。東京と沖縄の農村の老人を調べると、痴呆発現率は同等なのに、沖縄では周辺症状が現れないという。東京では多い「うつ」も沖縄には見られなかった。
驚くのは、仕事をする痴呆老人が沖縄で非常に多かったことで、中程度や重度の知力低下者でも多くが、男は畑仕事、女は家事をやっていたという。痴呆老人に対しても敬語を使う敬老の気風、急かされないゆっくりした時間の流れのなかで、知力が落ちても周辺症状が現れることなくぼけていく「純粋痴呆」で生きて行くことができる。
大井さんが「純粋痴呆」をよしとする理由の一つは、「がんによる精神的身体的苦痛がないらしいこと」だ。
痴呆老人の末期がん患者は、苦痛を訴えないという。まだ大規模研究がないようだが、ある日本の病院で痴呆51人、非痴呆77人のがん患者で調べたところ、非痴呆の7割が鎮痛剤を必要としたのに、痴呆の群はわずか4%だったという。痛みの認識能力が低下している可能性があるという。
さらに、「痴呆には終末期での実存的不安と恐怖は存在しないように思われる」という。
死が恐いのは、「私」を実体視しているからだ。痴呆では「独立し、変わらないはずの実体的自我は分裂崩壊する」から、死への恐れはないだろう。
自我崩壊などという表現は恐怖を与えるかもしれない。しかし、「痴呆老人の住む環境が適切であるかぎり、決して自我意識の消失それ自体は、苦痛と不安のある過程ではない」と大井さんは言う。
そうすると、《痴呆になってがんで死ぬ》というのは、最も幸せな死に方のように思われる。
私は、大井さんの本を読んでいるうち、痴呆になることが怖くなくなってきた。誰でも「純粋痴呆」で生きられる条件を整えることこそ肝要なのではないだろうか。
(大井玄さんは、今年、『痴呆の哲学』を分りやすくした『「痴呆老人」は何を見ているか』を新潮新書から出版したので、関心のある方はお読みください。)