年末の新聞から―新たな文明論を

takase222008-12-30

すっかり葉を落としたけやきと銀杏。晴れた公園の冬景色がすがすがしい。
きのう紹介した社説が載った前日、15日の日経夕刊のコラム「あすへの話題」で、哲学者の木田元氏が、私もブログに書いた大井玄さん(http://d.hatena.ne.jp/takase22/20081113)の本を取り上げていた。
《「人間の生きやすい社会   (哲学者  木田元)」
 大井玄さんの『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)を再読し三読している。こんなに静かな、だが深い感動を味わったことはあまりないからだ。
 著者はかつてアメリカで最先端の医療研究に携わっていたが、いまは認知症疾患の終末期ケアに専念している。それには、患者の機能回復は断念し、苦痛からの開放や心の慰藉だけを目指すべく、医師の自負心さえ捨てる必要があったそうだ。
 ご紹介したい論点は多いが、なかでも私が感じ入ったのは、本書の巻末近くで著者が、ご自身の臨床体験をもとに言葉少なに示唆している次のような文明論である。
 認知症に認知能力の低下という中心症状と、被害妄想・夜間せん妄・幻覚・攻撃的人格変化といった周辺症状があるが、この厄介な周辺症状が現れるかどうかは、患者をとりまく人間関係や、ひいてはその置かれている文化的環境と密接な関わりがあるそうだ。
 同じ程度の知力の低下があっても、都会では半数近くに周辺症状が現れるのに、敬老意識の強い農村ではそれがなく、穏やかな痴呆状態だけが観察されるという。
 一般に痴呆老人に周辺症状を引き起こしやすいのは、個人に『自立』を強い、自立したその自己の無限の欲望追及を是とする欧米型の近代社会らしい。
 それに対して、江戸時代の日本のように、農林業を軸にしてもっぱら太陽光を利用するエネルギー循環型の閉鎖的社会では、『他者とつながろうとする自己』が大事にされるからか、認知症の周辺症状も現れにくい、と大井さんは見る。こうした刺激的な文明論もふくむこの名著、皆さんにもぜひ一読をお薦めしたい。》
私のブログでは紹介しきれなかったが、大井玄さんの「病」に関する考察は、一方で死をめぐる人間の心の深層へと進んでいくと同時に、文明論、エコロジーへと広がっていく。
グローバリズムへの根底的な批判と私は受け止めた。グローバリズム批判は、政策次元だけでは不十分で、文明論として深めなくてはならないのだと思う。アメリカのやり方ではダメだということがはっきりした今、新たな文明の構想を考えたい。