幸せの指標4−意味の世界

takase222010-06-06

ドクダミの花をいたるところで見かける。
子どものころ、家のそばにドクダミに覆われた石垣があり、よく蛇が出た。それで、ドクダミと言えば、今も「蛇」と連想してしまう。
祖母はその葉を絞った青汁を飲んでいた。一度飲めと言われて口にしたが吐きそうになった。
そんな思い出のあるドクダミだが、花がとても可愛らしい。梅雨時の濡れた白い花もいいものだ。
さて、菅直人氏は「最小不幸社会」を唱えているという。
やはり民主党政権は、「幸福」を政策の主軸にしていく姿勢のようだ。で、また連載の続き。
『科学』の特集「幸福の感じ方・測り方」で、東大名誉教授・大井玄氏が「『意味の世界』と幸せ」を書いている。
大井先生は私の尊敬する方で、教えられることが多い。このブログにも何度か書いた。(http://d.hatena.ne.jp/takase22/20081230など)
特に痴呆老人の臨床からの洞察は、人間とは何かを深く考えさせる。(大井著『「痴呆老人」は何を見ているか』新潮新書、『痴呆の哲学』弘文堂、なお、大井先生は「痴呆」を「認知症」と言い換えることに批判的である)
以下、「『意味の世界』と幸せ」を紹介しよう。《 》はそのままの引用。
人間は「意味の世界」に住んでいる。
ある痴呆病棟でのこと。
女性の患者が、ある男性患者を自分の弟だと思っていた。近くをその男性が通ったとき、呼びかけたが彼は無関心に通り過ぎた。すると「あの子はね、小さいとき塀から落っこちて頭を打ってからああなのです」と澄まして作り話をした。
これは、自分の誇り、自信に傷がつかないように作り話をし、彼女が内面に築いた「意味の世界」の整合性を保とうとしたと解釈できる。
私たちの「現実」と彼女の「仮想現実」は異なるが、脳が「意味の世界」を構築する点では同一なのだ。
ゾウリムシは水中を浮遊し、死んだ微生物などの可食物にぶつかるとそれを食べ、食べられないものからは離れていく。世界は食べられるか否かで区別される。小石などは無意味な存在だ。
ヒトも自分に意味ある情報しか取り入れない点で同様だ。まわりにある無数の情報のうち、自分が受容できるものだけで「世界」を構築する。それは自分の心理的苦痛(不安)を最小にする深層意識における営みだ。
70年代に沖縄県(佐敷村)と東京都の痴呆老人を調査したところ、夜間せん妄、徘徊、暴言などの「周辺症状」が東京では約半数に見られたのに対し、沖縄では皆無だった。沖縄に残る敬老文化、ゆっくりした生活テンポ、一生同じ共同体で農作業などの仕事をしつづけることなどが、痴呆老人の「意味の世界」を安定させ、「幸せ」、「安心」をもたらしていると思われる。(反対に東京では、痴呆老人の「意味の世界」が壊され、不安感が募る結果、「周辺症状」が出てくると解釈できる)
カリフォルニアで進行がんの患者50人を調査したとき、うち49人までが「自分は健康だ」と述べたという。ここから「健康」を病理学的基準だけで定義することへの批判が出てきた。
患者たちは、《自分が社会的に有用で周囲から尊重されていると感ずるかぎり、自分は「健康」だと思っていた。紡がれる「意味の世界」は、潜在的に致死的な病があるにもかかわらず、誇りや自尊心が保たれていれば、安定しているように見える。周囲の他者との「快いつながり感」があれば、がんという不安因子を無視できるのだろうか》
そうとすれば、「健康に死ぬ」ことさえ可能になる。
(つづく)