カブール退避作戦-韓国の奇跡、日本の屈辱

 きのうの午後は猛暑だったが、畑に出た。
 草むしりと耕運のあと、白菜とスナップエンドウの種まき。収穫は、モロヘイヤ、空心菜、ナス、トマト、枝豆、ニラ。ニンジンが伸びてきたので間引きした。これをどうしようか。

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間引きしたニンジン。去年は葉をパリパリにチンして「ふりかけ」を作った。

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 愕然とさせられるニュースがいくつも重なり、怒っている。

 まず、東京都の若者向けのワクチン接種のドタバタ騒ぎ。

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こんなに来るとは想定していなかった、、そうです(日テレHPより)

 「若い人は予約なしでワクチン打てます」とやってみたら、午前3時から並びだすという大行列になって、ほとんどが接種できず。「じゃあ明日は抽選で」とやったら、こんどは抽選券を求めて、さらなる大行列ができ、「当たり」は6分の1でほとんどが無駄足になったという、もう冗談のようなニュース。

 この大行列がコロナ感染を招くかも? いや、それより先に熱中症の心配をしなくては。抽選なんかネットでやればいいじゃないか。さすがデジタル後進国だな。

 大混乱について小池百合子都知事が「密でしたよね。工夫して欲しいですよね。現場で」とコメント。あきれた。この国では首相も知事も自分の落ち度を決して認めないらしい。
 「1日200人程度を接種するはずが、初日は想定より100人多い300人に接種することを決め」たというが、そもそも、こんな少量ですむわけがない。ここは離島か?
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 アフガンで日本が歴史に残る大失敗をした。

 アフガニスタンの日本人や日本大使館の外国人スタッフらを退避させるために派遣されていた航空自衛隊の輸送機は25日から27日にかけて複数回カブールの空港に降り立ったが、結局26日にアフガニスタン人14人を、27日に日本人1人を隣国パキスタンに運んだだけだった。14人のアフガニスタン人は、日本大使館国際協力機構(JICA)の職員ではなく、第三国から要請された人たちだった。

 外務省によれば現地に残る日本人はごく少数で、退避を希望していないという。問題は退避を希望する日本大使館やJICAのアフガニスタン人スタッフとその家族ら約500人で、置き去りにされてしまった。

 退避作戦はこれでいったん終了となる。
《政府は、カブールの空港内で活動していた外務、防衛両省の支援要員をいったん撤収させた。だが、輸送機をイスラマバードに待機させており、「退避に向けた努力を継続する」としている》(朝日29日)

 一方、韓国政府に協力し働いていた現地人とその家族391人(今月生まれた新生児3人と子ども約100人を含む)は25日、無事にカブールを脱出することに成功した。

 韓国ではこれが「カブールの奇跡」と称えられている。

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韓国は現地協力者とその家族ら391人を退避させることに成功した(26日)

 一方、28日の韓国紙「中央日報」は、日本の失敗を「日本、カブールの恥辱」との見出しで伝えた。

 まさに国辱と言っていいが、名誉の問題より前に、たくさんの生身の人々の命を救えるか否かという人道の問題である。 

 アフガンでは、「アメリカ側」である日本政府に協力したアフガン人はみな恐怖に脅えている。
 JICAの《アフガン人職員(40)は2008年から勤務し、教員研修などの事業に携わってきた。今年に入り、イスラム主義勢力タリバンから「JICAを辞めてタリバンに加われ」と脅された。尾行されたこともあり、東京のJICA本部に救出を求めるメールを送っていたという。》(読売28日)https://www.yomiuri.co.jp/world/20210828-OYT1T50358/

 こうした協力者とその家族で退避を希望する人が500人いるというのだ。日本政府は、退避作戦を成功させられなかった責任と教訓を明らかにするとともに、置き去りにしている現地の人を一人でも多く救出する真剣な努力を続けるべきだ。

 なぜ日本と韓国の退避作戦がこれほど違った結果になったのか。

 一つは日本の動きが遅く、26日の空港近くで起きた爆弾テロの後は、タリバンの検問が厳しくなって空港に近づけなくなったことだ。韓国は爆弾テロの前に希望者を空港に運び込んでいる。テロの前後でまずは明暗が分かれた。

《韓国メディアによると、現地での作戦初日の24日には、徒歩で空港に集まることにしていたが、26人しかたどり着けなかった。そのため、翌25日にはバスを使った方法に切り替えられた。韓国大使館の現地のメール連絡網を使って場所を伝え、6台のバスで合わせて365人が集まった。バスには米軍が乗り、検問ではタリバン側と直接交渉を行うなど協力を得て、空港に入ることができたという。》(日テレ)

 いったん退避した韓国大使館員がまたカブールに戻って移送支援に携わったことも成功の要因だったという。

タリバンがカブールに侵入した直後にカタールに撤収し、アフガニスタン人の韓国内への移送を支援するために22日にカブールに戻った駐アフガニスタン韓国大使館職員らの素早い措置が大きな役割を果たした。》26日『ハンギョレ新聞』より
https://news.yahoo.co.jp/articles/74d8f5dd03d90b1296851a95a2928ff3d102906d

 一方、日本の大使館員は国外退避したままだったようだ。
《韓国の駐アフガニスタン大使館の外交官らは、タリバンがカブールに侵入した直後、いったんカタールに撤収している。しかし、今回の現地職員らの移送支援のため、外交官ら4人が22日に再びカブールに戻った。現地職員らとの連絡やバスの手配など、韓国政府は彼らの早期投入が「何より重要だった」と評価している。

 「必ず助ける」との約束通りカブールに戻り、同僚の現地職員と抱き合って涙するキム・イルウン公使参事官の姿は韓国メディアに大々的に伝えられた。キム公使参事官は帰国後のインタビューで「空港に行く途中でタリバンにバスを止められ、14~15時間、閉じ込められた」「全員を連れて帰ることができ、国家の品格と責任を示せた」などと振り返った。

 一方で、現地の大使館員が国外退避した状態の日本のオペレーションが、より困難なものになったことは想像に難くない。》(日テレ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/785a2455978416baea2b350a36fd36da8cd41019

 日本政府の動きの遅さや手配の拙劣さは、コロナ対応でも見られる危機意識の低さ、危機管理能力の低さからくる。

 カブール陥落をどれほど深刻な状況ととらえていたのか。「総裁選がどうした」などとやっている場合ではない。茂木外相はこの時期、イランなど中東を歴訪していた。

 「朝日」の記事に気になることが書いてあった。

《過去に約5年、JICAのプロジェクトで働いたアフガニスタン人の30代男性は、朝日新聞の取材に「どうして家族を置いて、私だけ逃げられるというのか」と話す。元上司から、日本政府は配偶者と子どもの同行ができる現職スタッフと違い、男性のような元スタッフには家族帯同を認めていないと聞いた
 現在、カブールで妻と幼い子ども6人と暮らす。男性は治安悪化で日本人職員が一時的に国外退避し、遠隔で仕事を進めなければならなかったときも、現地で事務所を守った。
 外国機関のために働いていたことがタリバン側に知られたらどうなるか、大きな不安を感じている。JICA関係者は「現地スタッフは、政府といま連携しながら対応している」と話す。》https://news.yahoo.co.jp/articles/e8a20f87587ff0bf8ae37561605be4f1a73c3a1a

 日本政府の言動を、いま世界中で日本に協力している人々が見守っている。

子どもたちの自殺を食い止めるには

 政府は、27日から新たに8道県を追加し、21都道府県に緊急事態宣言を発令することを正式決定。来月9月12日まで適用する。また、高知など4県にまん延防止等重点措置を新たに適用する。両方合わせると33都道府県が対象になる。

 菅首相「明かりははっきりと見え始めている」(えっ、どこに!?)などと、また根拠のない楽観論を語るが、思い切った措置をとらずにダラダラと対策を小出しにするのは、「政治日程」を優先しているからだという。

 《首相に近い自民党議員は「12日に宣言が解除できたら、間を置かずに衆院を解散する」と、なお早期の宣言解除と衆院選の実施を念頭に置く。大型商業施設の休業といった対策の強化を行うと、「解散どころではない」といった印象を国民に与えかねない。政治日程でフリーハンドを確保していくためにも、「いまは大胆なことはやりづらい」(政府関係者)というわけだ》(朝日)

 そのせいで、どんどん犠牲者が増えているんだよ。

 菅義偉という人は、政治理念もリーダーシップもなければ、人情や最低限の常識もない。こんな人物が首相になれているのは、狭い意味での「政治」の駆け引きによってだ。次の首相にこの人物がなるのは許されない。

 

 菅首相に対して国民がサジを投げているなか、新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長が、政府、国際オリンピック委員会IOC)を批判して、喝采を浴びている。

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尾身会長の発言に「聞いてらんないわ」とばかりに天をあおぐ三原じゅん子議員(左)。彼女、政府が非難されると眉根に皺を寄せたり、発言者を睨んだりマンガのようなリアクションを見せ、いつも笑わせてくれる(フジTVより)

 きのうの衆院厚生労働委員会で、「人々の意識に影響するかというのが大事だということは再三申し上げてきました」としたうえで、テレワークを要請している中でのバッハ会長の再来日について「やっぱり国民にお願いしてるんだったら、オリンピックのリーダーバッハ会長は、なんで、わざわざ来るのかと。普通のカモンセンス(常識)なら判断できるはずなんですね。なぜわざわざバッハ会長がもう一回?そんなのオンラインで出来るじゃないですか、というような気分がある」と批判。「銀座も一回行ったんでしょう?」と皮肉を込めて怒りをあらわに非難した。 

 パラリンピックの学校連携観戦については「おそらく、小学校の子が行っても感染はしない確率が高い。熱中症のことはあるけど。 実はそこが問題じゃないんですね。本質はそこで感染が起きるか起きないかじゃないんです」、「どういうメッセージを一般の人に(与えるか)ということ」とこれもばっさり。

 昼のワイドショーでは、MC(坂上忍)が、「尾身さんの発言に溜飲を下げた国民、多いんじゃないですか」とコメントしていた。

 総選挙で与党の自公に目にものを見せてやらなければ。
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 きょうのNHK「ニュース9」で、子どもの自殺のニュースが流れた。コロナ禍で去年から増えていたが、今年はさらに深刻化しているという。

 厚労省によれば今年1月から7月までの子どもの自殺は、小学生7人、中学生75人、高校生188人の合計270人にのぼった。未遂者や自殺願望をもつ子どもまで含めると膨大な数になるだろう。痛ましい。なんとかしなければと思う。

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あまりにかわいそうで胸が痛む

 24時間SNSでの相談に対応する団体は、相談件数がコロナ前の1.5~2倍になっているという。

 「家庭内がすごくギスギスしはじめて、みんなイライラしていて、『お前の学費のせいで、お父さんもお母さんも、こうなっている』などと、コロナ禍で崩れてきている家庭が増えていると思う」(岡田沙織氏)

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NHKニュース9より

 また、普通の学生生活を奪われたことで逃げ場や気持ちの吐き出し場がなくなっていることで精神的に追いつめられやすいという。取材を受けた高校生らも、友達関係がうまくいかない、家と塾の往復でリフレッシュできないなどと語っていた。

 さらに貧困などで、もともと厳しい状況の子どもたちが、生活を維持できなくなる懸念があるという。希望する子どもたちに無償で手作りの料理を提供する人々の献身的な努力も紹介されていた。

 相談窓口の充実、「居場所」の確保、学校の先生方の注意などは、それぞれ自殺を減らすのに有効だし、行政はいっそう支援してほしい。

 ただ、これらはあくまで対処療法である。いつも思うのは、もっと根本的な問題に行政も報道も触れないということだ。

 コロナ禍で子どもたちをとりまく状況がより厳しくなっており、それが事態を深刻にしていることは確かだ。しかしこれは環境であり「外因」である。人を前向きに生きるのためにもっとも大事なのは人生観=世界観だろう。

 このブログで何度も指摘してきたが、国際比較で、日本の子どもたちの自己肯定感はきわめて低い。ここがもっとも深い問題である。

 文科省は「命を大切にする心を育む」というスローガンを早くからかかげているが、具体的には自殺予防の防止プログラムという技術的な対策だったり、「動物飼育や植物栽培など生き物とのかかわりを通した「いのちの不思議さ」に触れる活動」(ある地域での教育実践)だったりと、ちゃんとした方針を出せないでいる。

 朝顔を育てたり鶏を飼育することが、そのままレジリエンス(打たれ強さ)ある「心」をつくることができるとは思えない。

 自殺したいなどとすぐに考えない「命を大切にする心」は、自己肯定感の高さが核心だと思う。
 では、それをどうやって形成できるのか。
(つづく)

「日出処の天子」をめぐって3

 一昨日、親戚がコロナ感染で亡くなった。

 はじめに若夫婦が感染し、同居していた70歳近い父親に家庭内感染した。父親は、がんの治療中で、ワクチンは接種していなかった。救急車を呼んだが、複数の病院で搬送を断られた。何とかある病院に入院できたが、がん闘病で体力が衰えていたこともあり、助からなかった。

 医療体制がパンクして、感染者が自宅待機を強いられた結果の出来事である。

 そんななか、きのうパラリンピックが開会した。
 もう国論は二分されてなどいない。みんなは、パラリンピックに反対しているのではない、病気になっても治療を受けられない国家的危機のときにやらないでくれと言っているのだ。
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 これまで私は、第二回遣隋使にかんする『隋書』の記述をこう理解していた。
 「日出ずる処の天子より、日没する処の天子に書を致します」は、中華思想ではこの世に一人のはずの「天子」を複数いるという常識ではありえない文言で、聖徳太子はそこまで強く倭国の自主性を誇示したかったのだろう。そして、「菩薩天子」の誉め言葉と使者の小野妹子のたくみな弁舌が、激怒する煬帝をなんとかなだめて留学僧を受け入れさせたのだろう、と。

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新進気鋭の古代史学者、河上麻由子氏。(中央公論HPより)

 河上麻由子氏は、新しい画期的な解釈をしている。

《通説では、「天子」は中華思想上の意味で使用されたと考えられてきた。(略)倭国の書状にあった「天子」は、使者の発言にあった「菩薩天子」を踏まえて考える必要がある。そこで取り上げたいのが、人界の王を意味する、仏教用語としての「天子」である。
 仏法による国家の加護を説く『金光明経(こんこうみょうきょう)』には、「天子」の意味が次のように定義される。

 集業(しゅうごう)によるがゆえに、人中に生まれ、王として国土を領有する、ゆえに人王と称するのである。母の胎内にあって、諸天が守護し、しかるのちに胎中に入る、人中にあって、生まれて人王となるとも、天が守護するがゆえに、また天子と称するのである。三十三天は、おのおの自らの徳をこの王に分け与える、ゆえに天子と称するのである。〔天子は〕神通力を得て、ゆえに自在となり、悪法から遠く離れ、それを遮(さえぎ)って起こさず、善法〔仏法のこと〕に安住し、それをますます広め、よく衆生をして、多く天上に生まれ変わらせる。(曇無讖訳『金光明経』)

中華思想では、天子は複数存在しえない。よって書状の天子を中華思想で理解することは、原則的に不可能である。倭王と隋皇帝の二人を天子と呼んでいるからである。皇帝を「菩薩天子」とたたえる使者の発言を踏まえるならば、倭国の書状にある「天子」は、諸天に守護され、三十三天から徳を分与された国王と解するべきである。》(P89)

 この新解釈はすばらしい。これだけでも本書は高く評価されていい。

 『金光明経』は古代日本では「護国の経典」として非常に重んじられた。この経典を護持すれば四天王他の天・神々が国を護ると説かれており、聖徳太子創建と伝えられる四天王寺、そして聖武天皇が創建した東大寺(正式名称は「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」は、この信仰にもとづいて建てられている。

 天武天皇も『金光明経』をやはり護国の経典である『仁王(にんのう)般若経』とならんで重視し、宮中や諸寺、諸国で講説させている。

 私はこの二つの経典を一昨年から学び始めたが、王が慈悲の心で衆生を救うことで国が護られるという「護国」のコンセプトが思想として深く、おもしろい。
 当時の天皇たちの国家理想を重ね合わせて読むと、聖徳太子が仏教を国教化した先見性はじめ、目からウロコの発見が相次ぎ、私の古代日本のイメージが一変した。これについてはまた機会があれば紹介したい。

 「護国の経典」である『金光明経』は、日本だけでなく、隋、そして周辺諸国で広く学ばれ、国家リーダーたちにとっては必須の教養課目になっていたと思われる。煬帝自身、菩薩戒を受けており、菩薩としての自覚をもっていたはずだ。
 だから、聖徳太子から、お互い「菩薩」である国家リーダーですよね、「菩薩天子」として付き合いましょう、と言われれば、煬帝もこの申し出を断ることはできなかっただろう。

 聖徳太子は挑発的な文言で国の自主性にこだわったわけではなかった。「外交オンチ」ではなく、仏教の深い理解のもと、隋の状況を見据えて、ぎりぎりの国家間交渉を行ったと理解できる。

 『古代日中関係史』には、この他にも日本の古代史にかかわる、私にとっての発見がいくつもあり、大いに学ばされた。

 ただし、河上氏の歴史叙述の方法には同意できないものがある。
 「日中関係を概観し、遣隋使派遣による日本の対等外交指向などの通説を乗り越えようとする試み」(本書概要)「『アジアに冠たる大国=日本としての歴史はこうあらねばならない』、という時代はもう終わったということが伝われば嬉しいです」(この本でもっとも伝えたいことは?に答えて)という意図で書かれた本書は、倭国の自主性の否定が行き過ぎて、日本の国家づくりが、中国の鼻息をつねにうかがいつつ進められたかのように描かれている。

 国家思想史、政治思想史の観点から古代日本を見るときには特に、倭国内での国家リーダーたちの営為はまったく別の様相を見せるだろう。これについては、いずれ論じたいと思う。

「日出処の天子」をめぐって2

 先週土曜の夜、東京ビエンナーレのプロジェクト「玉川上水46億年を歩く」で、活動の記録映画の上映会があった。

tb2020.jp

 場所は「大手町の森」。東京駅に近い高層ビルの立ち並ぶ谷間に出現した3,600m²の森である。

www.asahi.com

 まるで自然林の中にいるような雰囲気のなか、映画上映とプロジェクト支援者らのトークを楽しんだ。

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大手町の森でスクリーンをはって映画上映会

 私は冒頭、私たちがなぜいまここにいるのかを138億年の宇宙史からお話しした。これについては別に書こう。

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 どの国も公認の歴史叙述は自国中心主義的になる。専制政治の下では排外主義に歪められがちになったり、時の政治環境に左右される。

 日本では遣隋使、聖徳太子の描かれ方の変遷が興味深い。

明治初期の歴史教科書では、聖徳太子蘇我氏と共謀したとして、基本的に低く評価され、記述も少なかった。ところが1890年代前半、皇室に対する忠義の観念が小学校教育に持ち込まれると、聖徳太子についての評価は一転する聖徳太子は、推古天皇の命を受けて天皇権力強化に活躍した人物として描かれるようになる。(略)
 遣隋使についての記述が大幅に増加するのが、1920年発行の第三期国定教科書『尋常小学国史』からである。》

 太子は又(また)使(つかい)を支那につかわして、交際をはじめたまえり。其(そ)の頃、支那は国の勢(いきおい)強く、学問なども進みいたりしかば、常にみずから高ぶりて、他の国々を皆属国の如くにとりあつかえり。されど太子は少しも其の勢に恐れたまうことなく、彼の国につかわしたまいし国書にも、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙(つつが)なきか。」とかかせたまえり。支那の国王これを見ていかりたれども、程なく使を我が国につかわしたり。よりて太子はさらに留学生をも彼の国に送りたまい、其の後引きつづき両国の間にゆききありたれば、これまで朝鮮を経て我が国に渡り来りし学問などは、ただちに支那よりつたわることとなれり。(『日本教科書体系』18)

 ここで国定教科書としては初めて「日出処」で始まる文書が掲載されたという。

 国定教科書編纂担当者だった藤原継平は「国史教育の尤(もっと)も重要とする点は、国体観念を強烈に国民の頭に打ち込む」ことだとしている。

 1910年、韓国を併合し、アメリカなどでの日本人排斥に抗議しつつ日英同盟を口実に第一次世界大戦に参入した日本。名実ともに西欧列強と肩を並べようとしていた日本にとって、「わが国の外交」の始まりを明らかにすることは重要だった。

《周囲の国々を植民地化する大国隋の国勢にひるむことなく対等な関係を勝ち取った日本という構図が、当時の日本を取り巻く国際状況と合致》したのである。
 
 国体観念は時代が下がるほどいっそう強調されるようになり、《1940年度より使用開始となる第五期国定教科書では、「日出処天子」で始まる書状によって、聖徳太子が「国威をお示しになった」と表現されるようになる。》(本書P238~242)

 さて、問題の『隋書』東夷伝倭国条の第二回遣隋使についての文章である。

大業(たいぎょう)三年、倭国王の多利思比孤が、使者を派遣して朝貢してきた。使者がいうには、「〔倭王は〕海西には菩薩天子〔隋皇帝のこと]がいて、重ねて仏法を興隆させていると聞き及んでおります。そこで、〔使者を〕派遣して〔菩薩天子に〕見(まみ)えて拝礼させ、さらには沙門〔出家して修行に専念する者〕数十人を遣わして仏教を学ばせたい〔と申しております〕」。その国の書状には、「日出ずる処の天子より、日没する処の天子に書を致します。つつがなくお過ごしでしょうか」云々とあった。帝〔煬帝〕はこの書状をみて不快となり、 鴻臚卿(こうろけい)〔現在の外務省の長官〕にいうことには「蛮夷(ばんい)の書状に無礼なものがあれば、今後は奏上せずともよい」ということであった。

 この短い文章が多くの論争を生んできたが、これに分け入るとえらいことになるので、私が特記したいテーマだけ書く。

 まず、遣隋使を送った「倭国王の多利思比孤」は第一回の遣隋使の時と同様、聖徳太子厩戸皇子、うまやどのみこ)と考えられる。

 つぎに、「日出処」、「日没処」の解釈について。
《かつては、「日出処」は朝日の昇る国=日の出の勢いの国、「日没処」は夕日の沈む国=斜陽の国と理解されてきた。太平洋戦争前から戦後も多く支持されたものである。だが近年、東野治之によって、「日出処」「日没処」の出典が『大智度論(だいちどろん)』という経論(きょうろん、経を注釈したもの)であり、単に東西を意味する表現にすぎないことが証明された》(P77)

 調べてみると、東野氏が出典が仏教の論書『大智度論』だったことを証明したのは1992年の論文だったようだ。出典箇所が示されていないが、吉田孝『日本の誕生』(岩波新書1997年)によれば、「日出づる処は是れ東方、日没する処は是れ西方」と日によって方位を示す文章があるという。

 つまり仏教的世界観では、倭はその東端にあった。
 「遣隋使の国書の『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(隋書)と、小野妹子がふたたび隋に渡ったときの国書の『東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に日(もう)す』(日本書紀)とを参照すると『日出づる処』と『東』が対応している」(『日本の誕生』P121)

 『大智度論』は日本でも早くから読まれていた論書で、煬帝への書を書いたのが、仏教関連には突出して造詣のあった聖徳太子であれば納得できる。

 常識的にみて、隋との正式の国家間交流で「日没処=斜陽の国」のニュアンスを込めて書を書くわけがない。仏教書からの知見で書いたとするのが、この後の「菩薩天子」とも適合的だ。

 次にもっとも議論のある「天子」について。

 通説では、「天子」は中華思想上の意味で使用されたと考えられてきた。しかし、中華思想では「天子」はたった一人しか認められないはずだ。だから、この書を送った聖徳太子は「外交オンチ」だとの評価もあった。

 これまで私は、聖徳太子がこの書で、隋に対して「自主的」な態度を示そうとしたと思っていた。しかし、やはり「天子」から「天子」へなどと表現すれば、隋皇帝、煬帝(ようだい)が激怒するのは必至なのに、なぜあえてそんな大それたことをしたのかは疑問だった。また、「天子」の語を使った書を受け取ったうえでも、煬帝倭国の留学僧を受け入れたのはなぜなのか。

 河上氏の独自の新しい解釈が私の疑問を解消してくれた。
(つづく)

「日出処の天子」をめぐって

 河上麻由子『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』中公新書)を読んだ。

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2019年3月発行

 河上氏は阪大准教授でまだ41歳。近年注目されている、「新進気鋭の」という形容詞がつく歴史学者だ。先日、考古学とその関連分野の優れた研究者に贈られる第33回「浜田青陵賞」が河上氏に贈られたのを知り、この本を手に取ったのだった。

 私は、日本という「国のかたち」を知るには古代、とくに飛鳥時代が重要だと考えている。聖徳太子厩戸皇子、うまやどのみこ)の存在はとりわけ大きく、後々まで日本人の精神を形成する基礎を作っている。そういう問題意識で、古代史を少しづつ勉強している。 

 

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河上麻由子氏。こういうプロフィール写真を公開するとは、けっこうお茶目な人らしい

 本書は「古代歴史文化賞」優秀作品賞を受賞している。 

 出版社による本書の内容紹介はー
「5世紀の倭の五王の時代から菅原道真による建議で遣唐使派遣計画が白紙にされた9世紀末までの日中交渉の歴史を、著者の専門とする仏教を切り口に紐解く。東アジアのみならず、アジア全体を視野に入れ、日中関係を概観し、遣隋使派遣による日本の対等外交指向などの通説を乗り越えようとする試みが本書の特徴である

 本書の「はじめに」でも「日本古代の対中国交渉をアジア史の枠組みから見直すことで、どのようなことがみえてくるのか。通説を乗り越える試みを始めていこう」と挑戦的に宣言している。具体的には―

 607年に聖徳太子が派遣したとされる遣隋使が、隋の煬帝(ようだい)に送った書状の書き出し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」を根拠に、日本は古代のある時期から中国と対等の関係を築き、それ以降は中国を単純に大国とみなすことはなかったという説がある。

 これは近代になって教科書にも採用され、太平洋戦争中には、《聖徳太子を称賛する文言も付け加えられていった。「たいそう勢が強く、まわりの国々を見くだして、いばって」(初等科国史,上1943年)いた隋に対し、対等関係を主張した聖徳太子の姿勢が、列強との戦争に突き進んだ政府が国民に要求する姿勢と合致したからである》

 敗戦後は、聖徳太子への称賛は突如トーンダウンし、現在では高校の歴史教科書からは遣隋使が中国との対等を主張したという説は姿を消した。ところが、義務教育の教科書や一般向けの書物には、いまだに遣隋使から対等な立場での日中交渉が開始されたとの表現が残るものがある、と河上氏はいう。それを覆したいというのだ。

 リベラル派の歴史研究者が、軍国主義歴史観の残滓を徹底的に取り除こうというイデオロギー闘争の側面もあると見るのはうがちすぎか。

 河上麻由子氏のインタビューでは

―今回のご本で、最も読者に伝えたかったことは何ですか。

河上:「アジアに冠たる大国=日本としての歴史はこうあらねばならない」、という時代はもう終わったということが伝われば嬉しいです。

 と答えている。今の日本の情況を反映しているともいえそうだ。

 実は私も、聖徳太子は隋と対等な立場での日中交渉をする意図を持っていたと理解していたので、とても興味深く読んだ。

takase.hatenablog.jp

takase.hatenablog.jp

 

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 倭国は600年に随に初めて使者を出している。

 開皇20年〔600年〕、倭王の姓阿毎、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞彌(おおきみ)と号するものが使者を派遣して朝廷にやってきた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。使者がいうことには、「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、夜明け前に出でて政務をとり、〔その間は〕跏趺(かふ)して坐し、日が昇ると政務を停め、『わが弟に委ねよう』と言っております」と。それを聞いた高祖〔文帝〕は、「たいへん義理〔道理〕のないことである」と言った。そこで訓戒して倭王の行為を改めさせた。(『隋書』東夷伝倭国条)

 当時倭国は、第33代推古天皇(在位592~628年)のもと、聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子がそれを補佐するという体制だった。

 聖徳太子は毀誉褒貶がはなはだしい。戦前は聖者としてまつりあげられた一方、近年はそもそも聖徳太子などいなかった、聖徳太子は馬子だったなどとその存在自体を疑問視する説まである。

遣唐使派遣の主体は、『隋書』が倭王の姓名をアメタリシヒコとすることから、男性であったことがわかる。摂政である聖徳太子が遣使を主導したものであろう》(P74)

 妥当な解釈だと思う。

 『隋書』の記述内容はどう解釈できるのか。
《天は倭王の兄、日は弟であって、倭王は、日の出後は弟たる日に統治を任せているというのである。(略)倭王は、夜に政務を執り、日が昇ると停止するという。第一回遣隋使からおよそ半世紀後の倭国では政務が日の出後に始まっていることも考慮すると、通訳による誤訳の可能性もあろう。ともあれ隋の文帝は「道理に合わない」と評し、倭王に訓戒を伝えさせた。(略)その政務のあり方を問題にしたのである。》

 日が昇ると政務をやめるというのは理解しがたい。

 479年の「倭の五王」の「武」による遣使から中国への使者が途絶えていたことを考えると、河上氏の《100年以上の時を経て中国を訪れた倭国の使者は、通訳の言語能力に問題があったのかもしれない》との解釈にうなずきたくなる。

《「跏趺」とは結跏趺坐(けっかふざ)の略で、両足の裏を見せるようにして据わる、仏教で瞑想するときの座り方である。「跏趺」が誤訳でないならば、倭王は瞑想しながら政務を執っていたことになる》(P70-71)

 ただし、倭王聖徳太子とすれば、熱心に坐禅を行っていたことがゆがんで伝わった可能性があるのではないかと素人ながら思う。

 『上宮聖徳法王帝説』によれば、太子は「五姓各別」(さとりに到達する能力について5種のいろいろな程度の人がいるという考え方)という学説も学んでいたという。この説は「楞伽経(りょうがきょう)」や「解深密教(げじんみっきょう)」といった唯識の経典に特有の学説だから太子は唯識を学んでいた可能性がある。(岡野守也聖徳太子「十七条憲法」を読む』P85)

 「唯識派」は別名「瑜伽行(ゆがぎょう)派」ともいい、瑜伽(ゆが)とはヨガ、つまり瞑想で、坐禅を非常に重視する。太子は三経義疏(さんぎょうぎしょ)という注釈書を著すほど深く仏教を修行しており、法隆寺の夢殿で瞑想していたと伝えられる。

《訓戒を受けてしまったとはいえ、倭国はその後も使者を派遣し、隋も倭国の使者を受け入れている。初回となる600年の遣隋使によって倭国は隋との交渉を開始できたのであり、その点ではこの遣隋使は成功したと評価してよい》(P71)

 この後、603年に冠位十二階、604年には十七条憲法が制定されている。

 十七条憲法について河上氏は《十七条憲法は、役人としての心構えを説いたのみで、政務のあり方を具体的に定めたものではない。制度としてはまだまだ原始的な状態であるが・・》と非常に低い評価をしている。

 これには同意できないが、十七条憲法の評価については、ここでは突っ込まない。

 第一回遣隋使から7年たった607年、小野妹子(おののいもこ)を使者に2回目の遣隋使が派遣される。
 ここで有名な「日出処(ひいづるところ)の天子」が記された文書が隋皇帝、煬帝(ようだい)に送られるのである。

(つづく)

天皇ご心配「拝察」事件の真相

 タリバンにどう対応するかで世界がパニックになるなか、JVC(日本国際ボランティアセンター)の元代表、谷山博史さんの見方を紹介したい。

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谷山さんのFacebookより

 谷山さんは1983年にタイで会って以来の友人で、現場を知る者ならではの説得力ある意見を述べている。以下は抜粋。

・・・今回私が一番恐れたのはタリバーンによる報復でした。アメリカは9.11の報復戦争としてこの戦争を始めました。また、和平を選択肢から排除してタリバーンを根絶やしにすることに固執してために戦争がこんなに長引きました。そして
最後には逃げ出しました。根絶やしにするという意図のもとに、害虫のように殺されていったタリバーン兵がどれほどいたか想像してみてください。だから私は報復を恐れました。いや今でも恐れています。
しかしカブールを制圧して以降タリバーンは一貫して報復はしないと表明しています。これは私にはとても意外なことで驚きでもあります。国際社会を意識してのことであることは間違いありませんが、タリバーンが報復を原動力として戦ってきたことを考えると俄かには信じがたいものがあります。しかしこれは希望でありチャンスであることもまた間違いありません。今、言論の自由や行動の自由、女性の人権、就業の自由など民主主義社会で保証されるべき自由と人権が失われることを誰もが恐れています。本当に恐ろしいです。しかし今タリバーンに対する報復戦争を容認してきた私たちが一番タリバーンに求めるべきは、報復を自制することなのです。そのためにはタリバーンを孤立化させてはならないのです。・・・・ 

  考えさせられる。詳しくは彼のフェイスブックを参照してください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100045364272632

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 東京五輪の開催とそこでのコロナ対策をめぐっては、6月下旬の「拝察発言」が大きな波紋を広げた。

 6月24日、宮内庁の西村泰彦長官が定例記者会見で
「名誉総裁をお務めになるオリンピック、パラリンピックの開催が、感染拡大につながらないか、ご心配であると拝察している」と発言したのだ。

 開催かどうか、国論が二分されている時のこの発言は、天皇の政治への不介入という憲法の原則に抵触するともみなしうる重大事件だった。
 当然、永田町をも震撼させたが、菅義偉首相は「長官本人の見解を述べたと理解している」、加藤勝信官房長官は「宮内庁長官自身の考え方を述べられたと承知している」として、あくまで「長官の個人的な推察」に過ぎないと強調。天皇自身の意思であるとの見方を否定した。

 はたして真相は?天皇は何を考えているのか?

 この事件についてはまず、「皇太子時代から15年間、陛下を見続けてきた」と言う共同通信の大木賢一記者が、「側近に拝察させる」という、その「陛下らしからぬ行動」に衝撃を受け、「陛下の真意」を“拝察”した記事が詳しい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/03ad9db1b07170721849b668cdb341d27b2975fe?page=1
 《宮内庁長官が自分の一存で勝手に陛下の思いを語ることは常識的にあり得ない。合意の上で「お気持ち」の発露を実現させたことは疑う余地がない。慎重で遠慮深い陛下が、「長官の口」を使ってまで自らの意思を示すという極めて政治的な行動を取ったと考えるしかなかった。》(記事より)
 つまり「拝察発言」は、陛下があえて西村長官にやらせた行動だという。

 注目すべきは、文芸春秋』9月号の友納尚子「天皇陛下の期待に背いた菅首相の『内奏』」だ。この記事もやはり、「拝察発言」は天皇が西村長官と綿密に計算したうえでの行動だったとしたうえで、事件の内情をくわしく追っている。

 この記事が事実なら、今の天皇がどんな覚悟、あえていえば「戦略」をもってこれからの天皇という責務を果たそうとしているのかがわかる。とても興味深く読んだ。

 友納尚子氏は、今では皇室ジャーナリズムで活躍する記者だが、私はその前から彼女を知っている。今から20年ほど前、友納氏は、田口八重子さん拉致事件など、北朝鮮関連の記事を文春系の雑誌に発表していた。特殊な情報源をもとにした深い闇を抉るような記事に感銘を受けた私は、彼女に連絡し、会っていろいろ話を聞いたことがあった。

takase.hatenablog.jp

 記事の要点を紹介すると―

 天皇は、コロナ感染の情勢については非常に強い関心をもって自ら精力的に調査していたという。現場の医療、保育、介護分野の人と「オンライン行幸」で情報を得、専門家を御所に招いて話を聞いていた。天皇はとくに新型コロナ対策分科会の尾身茂会長を信頼していて、2回も御所に招いて「進講」させている。

 皇后も「日本赤十字」の名誉総裁として、去年11月には天皇とともに日赤医療センターをオンライン視察。その後、日赤関連の3病院をつないで看護師から現場の話を聴き「鮮烈な印象を残された」という。

 天皇東京五輪の名誉総裁で、開会あいさつで祝意を表する立場でもあり、きわめて大きな責任を感じていたようだ。

 「拝察発言」までの流れはこうだ。

6月17日、尾身会長「今までよりももう一歩強い、国と自治体のリーダーシップが求められています」と政治家に注文をつける。

6月18日、尾身会長が五輪は「無観客」でと提言。

6月21日、バッハ会長含む五者協議で、「定員の50%内で、最大1万人」の観客を入れる方針が決まる。

6月22日、(4月20日につづいて)2回目の管首相の「内奏」。「内奏」は通常20分だが、この日は異例の1時間に及ぶ。

「陛下はオリンピック開催までに、政府の意気込みよりも、緻密な具体案をご確認されたかったと言います。オリンピックは海外からの人流も多いことから、感染対策についてご質問をされたようですが、管さんからは納得のいく、はっきりした説明は得られなかったようです。内奏を終えて部屋から出て来られた陛下は『なかなか分かってもらえない』と声を漏らされたそうです」(政府関係者)

 一方、官邸に戻った菅首相も「なぜか陛下がとても感染対策のご心配をされている」と訝しげな様子だったという。両者とも想像以上の相違を感じたようだ。

 この2回目の「内奏」が「拝察発言」へとつながる。

6月24日、西村長官の「拝察」発言

 これは長官の個人的発言ではなく、「陛下のご意向を受け、あえて発せられたものであることは明らかであり」、その後天皇は拝察発言をなんら後悔する様子はないという。

 今回の発言は「『国民の中に入っていく皇室』という令和スタイルの実践でもありました。批判を受けたり苦難に遭遇したりしながらも、コロナ対策に奔走する医療関係者や尾身氏らの姿に、両陛下は、一人でも多くの命を守るという気概を感じておられたようです。これからも国民の中に入ってふつうの人々の声に耳を傾け、ご自分たちの言葉で国民に返していく、そういう相互理解を深めたいお気持ちのようです」宮内庁関係者)

―と文春記事は伝えている。


 天皇の五輪を前にしたコロナ対策への高い問題意識からすれば、菅首相の「内奏」は完全に落第!で、このままではとんでもないことになる!と天皇は危機感を強めたと考えられる。
 菅首相だから、天皇がいくら突っ込んだ質問をしても、「緻密な具体案」など出てくるはずもない。いつものように質問に対して答えにならない答えをしたのだろう。
 文春記事によれば、菅首相天皇、皇室をまったく崇敬していない政治家だそうで、ぶつかるのは必然だったかも。

 一方で、天皇は現場からの声を聴き、専門家から情報を得て、いま世の中で何が起きているかをリアルに把握していた。この声を反映する天皇として行動しようとした結果、いわば「確信犯」的に今回の拝察発言事件を起こしたということのようだ。

 天皇がこういう「令和スタイル」の行動原理で動くとすれば、今後も憲法規定スレスレの「事件」が起きる可能性がある。

 ところで、天皇はたいてい国民の多数意見と同じ見解をお持ちのようだ。とすれば、もしいま「菅内閣を支持しますか」と問われたら・・・答えは決まっているね。

「鉄より重い元素は超新星爆発でできた」は誤り?

 はじめにお知らせです。
高世仁のニュース・パンフォーカス】No.18 「ミャンマーの人道危機にどう向き合うか」を公開しました。関心のある方はお読み下さい。

www.tsunagi-media.jp


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 タリバンは17日、国内全土に全般的な恩赦を宣言。政府職員に安心して職務を再開するよう呼びかけたほか、自分たちの政府に女性の参加も希望すると述べたと報じられている。実際にどうなるか、注視しなければ。

 アフガンの特に都市部の市民や、これまで女性の権利や報道の自由のために活動してきたNGOなど、タリバン支配から脱したことを「解放」と受け止めてきた人々からは、アメリカは「アフガンを見捨てた」と激しい非難の言葉が発せられている。当然だ。

国陥(お)ちてタラップ蜘蛛の糸となる 新潟県 今井了 (今朝の朝日川柳)

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15日、米陸軍の輸送機に乗った出国希望のアフガン人。この機だけで女性や子どもを含む640人がカブールからすし詰めでカタールに向かった。この日あよそ4000人のアフガン人が米軍機で脱出したという。

 米軍機に着の身着のままで乗り込もうとする市民の姿には、すさまじい恐怖が表れている。何の展望もなく、母国を離れる彼らにどんな将来が待っているのか、心配だ。

 改めて教えられるのは、アメリカは(どの国もだが)結局は自国の利益で行動するという当たり前の道理だ。

 日本では右も左も日米安保条約に頼って、アメリカが最後まで守ってくれると考えている人が多いようなので、反省の機会にしてもらいたい。
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 15日、小泉進次郎環境相萩生田光一文部科学相井上信治科学技術担当相が東京・九段北の靖国神社を参拝。閣僚では13日に西村康稔経済再生相と岸信夫防衛相が参拝している。菅首相玉串料を私費で奉納した。第2次安倍内閣発足以降、「終戦の日」の参拝を見送っていた安倍前首相も参拝した。
 菅首相は15日午前、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、献花を行った。

 毎年、靖国神社の動向ばかりが報じられるが、日本における戦没者の公的な慰霊施設は千鳥ヶ淵戦没者墓苑だ。天皇、皇后の歌碑もある。
 この時期以外はいつも人影が少なく静謐な空間だ。毎年お参りに行くことにしているが、今週中に行こうかな。
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 この世の中を構成している物質がどうやってできたか。

 はるかな昔から人は考え続けてきた。哲学のもっとも根本的な疑問の一つである。
 私がやっているコシモロジーのための宇宙史でも、中心テーマの一つで、はじめて聞く人には強いインパクトを与えるようだ。

 私も、宇宙が極微の一点に恐縮された膨大なエネルギーの急拡大ではじまったこと、そのエネルギーから宇宙のあらゆる物質が創られたことを知ったときには、大きな感動があった。私自身も、宇宙の多くの銀河や無数の星たちと同じく宇宙エネルギーからできていて一体だということになる。

 科学の急速な進歩によって人類がこの事実を知るようになったのは、わずかここ半世紀のことにすぎない。すごいタイミングに人間として生を受けたものだと、そこにも感動してしまう。
 
 物質の創発には大きく3段階ある。

 まず138億年前のビッグバンで、水素(原子番号1)、ヘリウム(2)、リチウム(3)の3種の元素ができた。正確に言うと、宇宙誕生直後に素粒子レプトンクォーク)ができ原子核(陽子、中性子)を構成し、38万年後に原子核が電子をつかまえて元素ができた。ほとんどが水素だ。これがビッグバン元素合成である。

 次に、宇宙空間にただようそれらの物質が重力で引き合い、恒星ができる。星の内部は超高温、超高圧の溶鉱炉のようになって核融合反応が起き、水素からヘリウムが、ヘリウムから炭素が、というように次第に重い元素が創られていく。これを恒星内元素合成という。

 質量が大きな恒星の場合、元素合成が鉄(原子番号26)にまでいたるとその星は寿命を迎え、大爆発(超新星爆発)を起こしてそれまでに形成された諸元素を宇宙空間にまき散らす。

 では、鉄より重い元素、例えば銅(原子番号29)、ヨウ素(53)、金(79)、鉛(82)、ウラン(92)などは、どうやってこの世に現れたのか。
 これまでは、超新星爆発のさいの超高温と超高圧による核融合でこれらが形成されると考えられてきた。手元の本にもそう書いてあるものが多い。

 「・・超新星爆発を起こす。このときの高温・高圧の状態で鉄より重い元素がつくり出され・・」(学研の理科事典)

 「(元素合成の)第三のステージは超新星で起こる。これは非常に大きな星の一生の最期の数秒間と同時に起こる大爆発だ。超新星の高温下では実に多くの中性子が生み出されるので、周期表の残りの全元素は中性子捕獲によってほんの数秒のうちに作られる[超新星元素合成]」(『ビッグヒストリー』)

 私もこれまではこう説明してきた。

takase.hatenablog.jp

 しかし、どうやら今は理論が更新されているようだ。

 鉄より重い元素が作られるプロセスはs-過程(sはslowの意)とr-過程(rはrapid)の二つが想定されている。

 s-過程は、巨星となった星が、その強大な放射の圧力で外層のガスを周囲に放出する際にゆっくりと進行すると考えられる。
 一方、r-過程元素は、連星中性子星の合体がその放出源であることが判明した。これは重力波天文学の誕生により、2017年以降確認されたのだという。
 超新星爆発でも鉄より重い元素が形成される可能性はあるが、まだ確実にはなっていないそうだ。(以上、戸谷友則『爆発する宇宙―138億年の宇宙進化』講談社

 ややこしいが、巨星中性子星も、星の一生でいえば臨終時期なので、ざっくりと、「鉄までの元素は星の輝きの中で創られ、それより重い元素は星が死ぬときに創られる」という表現でいいだろう。

 現代科学の進歩はとても速い。宇宙進化も、生命進化の分野も、最新の知見に追いついていくのが大変だが、私にとっては刺激的な学びになっている。もっと勉強しよう!