「日出る処の天子」考

日本古代史とりわけ聖徳太子に関しては不明な点が多々あり、議論百出だ。
本屋には、聖徳太子は実在しなかった、また太子は蘇我入鹿だったなどという本まで並ぶ。私は細かい事実関係を確定することには興味がなく、今の私たちに教訓になることを学ぶという立場で書いている。
ただ、事実関係で一つ補足すると、《現在のところ、「天皇」の称号が使用された確実な史料は、7世紀後半の天武朝である》(吉村武彦『聖徳太子』)とのことなので、第三回遣隋使のときの国書にあったとされる「東天皇、敬みて西皇帝に白す」の文章には疑問符がつけられる。これを記した「日本書紀」は、聖徳太子没後100年近く経って720年に編纂されており、少しづつ史実が変えられていた可能性がある。
なお、日本という国号を中国に対して初めて用いたのは、701年の遣唐使だったが、「日本」という国号と「天皇」という独特の称号とはほぼ同時期(天武朝)に成立したというのが通説になっている。(吉田孝『日本の誕生』)
この二つの呼称は中国王朝との対抗関係のなかで成立した。「日本」とは「日出る国」、つまり中国大陸の東にあるという意味であり、「天皇」は「皇帝」でも中国と冊封関係の「王」でもないことを意味している。(なお唐の高宗がごく短期間「天皇」号を用いたことはある)
こうして、朝鮮半島の諸王朝とは違い、中国の冊封関係に入らずに独自の道を歩んだことが、日本という国の骨格を作ってきた。そのおおもとが、きのう触れた、対等外交を要求した国書にあると言っても間違いではないと思うがどうだろうか。
「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」
これを、煬帝を激怒させ、隋という超大国に喧嘩を売った、身のほど知らずの稚拙な外交と批判する向きもあるらしい。478年の宋王朝への遣使を最後に、倭と中国王朝との交流は絶えていたから、井の中の蛙で、怖いもの知らずの無謀外交だったのだろうか?
いや、そうではない。
この文章は、中国大陸の諸帝国をめぐる歴史的外交文書を、相当に研究して書かれているようなのである。
紀元前200年、漢の高祖劉邦匈奴に大敗北を喫し、屈辱的和平を結ぶ。
その後、匈奴単于(ぜんう)から漢の文帝に寄せた書にはこうある。
「天立つる所の大単于、敬(つつし)みて敬問す、皇帝恙なきや」
これに対して漢から「皇帝敬問す、匈奴の大単于恙なきや」と書を返すと、さらに匈奴からは、「天地の生ずる所、日月置く所の匈奴の大単于、漢の皇帝に敬問す、恙なきや」との書が送られたという。「恙なきや」というたった一語ではあるが、ここに、対等な国家関係が表現されていたのである。
また、「書を致す」という表現は、漢と突厥との間の国書で二回使われているというが、これらの国書は『随書』などの文献にも載っておらず、日本が独自に研究したことを示唆している。(田村晃祐など『聖徳太子法華義疏・十七条憲法』)
さらに興味深いのは、聖徳太子が送った遣隋使4回のうち、(裴世清を送っていった第3回を除く)3回が隋の高句麗遠征の時期にあたっていたことだ。このタイミングは偶然だったとは思えない。(田村圓澄『聖徳太子』)
私たちのご先祖は、決して外交オンチなどではなかった。周到な研究をもとに、知恵をしぼりながら、果敢に大陸の超大国に対峙したのである。