ニホンかニッポンか

日本未来の党」の党名の「日本」が「ニッポン」でいいと書いた。
「にほん」と「にっぽん」の使い分けはどうやって決まるのか、昔から関心があったが、これはなかなか面白い問題だ。
昔、戦意高揚のために響きが勇ましい「にっぽん」が多用されたと聞いた。それで、私は一時、なるべく「にほん」を使おうとしたことがあった。日本共産党は「にほんきょうさんとう」で、なるほどと納得した覚えがある。
とはいえ、社民党の前身で非武装中立をかかげた日本社会党は「にっぽん」なのだった。若い人は知らないだろうが、昔々、社会党に成田委員長という名物政治家がいて、演説のとき「ニッポン社会党は・・」と、「ぽ」に力を込め、ツバを飛ばして発音していたのを今でも覚えている。
海外はとみると、ジパング、ジャパン、ジャポンであり、ロシア語でヤポンタイ語がイープン(またはジープン)、ベトナム語でニャッバン、北京語リーベン、広東語ヤップン、朝鮮語がイルボンと、P音かB音、唇で破裂音を出すのが多そうだ。
「にっぽん」の方が通りがよさそうである。
テレビ局の規定では、ナレーションを読むとき、日本が単独で出てきた場合は「にっぽん」と読むことになっている。
とはいえ、日本海日本アルプス日本海溝などは、どうしても「にほん」以外には読みえない。
さて、いつごろからわが国は「日本」になったのか。
自分が何者かは自分以外のものとの関係で決まるように、日本という国も周辺の、とくにチャイナ大陸との関係で成立してきた。日本を国号として発信したのは、どうやら702年の遣唐使が最初らしい。日本側から「これから日本という国名にしますのでよろしく」と申し出たのである。
そのころの東アジアの秩序というのは、チャイナ帝国の皇帝から周りの国が、おまえのところはこういう国名で、お前は○○大王と称してよいと一方的に称号を賜る冊封(さくほう=任命)体制を前提に成り立っていた。倭国は、他の周辺国とは違って冊封されずにきたのだが、それでもこの事態は異変事といってよい。東のはずれの小国が自分から勝手に「こう名乗ります」などと言ってくるのは想定外の出来事だった。
唐の役人もとまどったのだろう。改名のわけを、遣唐使に何度聞いても理解できなかったらしく、「実を以て対(こた)えず」、つまり本当のことを言わないので「これを疑う」と書いている。その理由がわからないので、史書旧唐書』(くとうじょ)には日本の由来について三つの説を併記している。
「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす」
倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」
「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」
日本側が、国名を認めさせるためにきわめて難しい交渉を行ったであろうことは想像にかたくない。おそらく大変な苦労のすえ、ついに則天武后に認めさせることに成功した。当時の日本人は交渉事にも長けていたようだ。いまの政治家に学んでほしいものである。
日本への改名は、聖徳太子が「日出づる処の天子」と名乗って煬帝を激怒させた流れの行き着いた先といってもよいだろう。
「越南」というチャイナ側から呼ばれた名前をベースにしているベトナム、スペイン国王のフィリップからとったフィリピンなどアジアの国名の由来はいろいろだが、わが国の国名の由来は、他の国々と比べて、民族自立を強く意識した、かなりイデオロギッシュなものである。
では、その当時、日本をどう発音したのか。
当時の唐の長安における漢字音は、「ニッポン」と「ジッポン」の中間音だったそうだ。
もともと「ニッポン」だったらしい。
(参考:吉田孝『日本の誕生』岩波新書