朝ドラの「敗戦責任」について

 8月は戦争を振り返る番組や特集記事が多く、自然に戦争について考えさせられる。

NHKニュースより

 きょうは「終戦記念日だとされている。いや、敗戦記念日だという反論もあるが、そもそもこの日を記念日にしていいのかという議論がある。

玉音放送朝日新聞

 メディア史家の佐藤卓己上智大教授)は、8月15日をピークとする日本メディアの戦争・平和報道「8月ジャーナリズム」は、他者の存在と降伏の事実を忘却したものだと指摘する

1945年8月15日に終わった戦争は存在しないからです。日本が連合国にポツダム宣言受諾を伝えたのは8月14日ですが、15日はどの戦線でも戦闘が続いていました」

「『終戦』は相手国のある外交事項です。降伏文書に署名した9月2日が国際法上の終戦であり、翌3日をロシアも中国も対日戦勝日としています。交戦国ではなく、あくまでも『臣民』に向けた『玉音放送』があった日を節目としていること自体、極めて内向きの論理に基づいています」

「そもそも、千島列島や旧満州は8月15日以降もソ連軍の侵攻を受けており、終戦どころではない。放送局が破壊され物理的に『玉音』体験が困難だった沖縄も同じ。『8・15』は、沖縄や外地の邦人、戦地に取り残された兵士らの記憶を捨象し、周縁化することで成立しているのです」

 佐藤氏は、「8・15=終戦の日」という「記憶」自体、8月ジャーナリズムの産物だという。

玉音放送を流すラジオの前でうなだれる国民を写したとされる新聞写真は、撮影日時や状況が不確かなものも含まれていました。また日本人の多くは、あの日を『じりじり照りつける太陽の下』の出来事として記憶していますが、東北は曇りだったし、北海道の一部は雨でした」

 玉音放送の日の天気については、たしか井上ひさしが、日本中どこも「抜けるような青い空」ではなかったと指摘したのを記憶しているが、ネットで調べたら―

《横浜(神奈川県)は日照が8.2時間、雲量が平均4.3(10分の4.3という意味)だから、雲ひとつない快晴ではないけれど、1日を通して晴れていたとみられる。ただし、ところにより夕立はあったようだ。北関東の熊谷(埼玉県)は、日照が5.8時間、雲量が平均5.7、降水量1.6mmとある。この日の最高気温が31.2℃に達したことから、午後に夕立があったことが推測される。

 しかし、東北の太平洋側は晴れていない。仙台(宮城県)は日照が1時間、雲量が平均10だからほぼ曇天だった。盛岡(岩手県)は日照が4.2時間、雲量が平均9.7で、降水量が0.2mmと少し雨が降っている。

 北海道の大半は雲量が平均10と1日を通して曇天で、帯広(降水量0.3mm)、釧路(同0.2mm)、稚内(同1.6mm)では小雨が降ったことがわかる》(https://weathernews.jp/soramagazine/201608/05/

「戦後長らくメディアが作り上げた『記憶』は、引用や孫引きが繰り返されることで、国民の集合的記憶=体験として歴史化していく。それはもはや『神話』と言えます。戦前と戦後の断絶を設定する『8・15神話』は、両者の連続性を隠蔽する効果をもたらしてきました。8月ジャーナリズムは『戦争の記憶』ではなく『戦後の忘却』の上に存在しているのです」

「8・15終戦記念日は、周辺国との歴史的対話を困難にしてきました。いくら私たちが平和憲法にコミットする姿勢を示しても、その前提となる内向きの『あしき戦前』と『良き戦後』の断絶史観は外国と共有されていない。他者に開かれていない空間で、いくら自己反省を繰り返しても、対話なきゲームです」

 佐藤氏は終戦の日を二つに分けることを提案する。

「8月15日はこれまで通り死者に祈りを捧げ、9月2日は戦争責任や加害の事実に冷静に目を向け、諸外国と歴史的対話をする日にする」

 言われてみれば、たしかに8月15日は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」と天皇が臣民に告げた日で、日本人の間だけの内輪の終戦ではある。日本が侵略した地域の人々のことは念頭になかったろうし、あの放送を聞いた日本人が負けた相手としてはアメリカしかイメージしなかっただろう。

 先週の『虎に翼』で、寅子と再婚する星航一が突然、日本の敗戦に責任があると涙ながらに告白する。

 彼は戦前、総力戦研究所という総理大臣が管理する組織で、アメリカを相手に戦争すればどうなるかのシミュレーションを命じられ、何度やっても日本が負けると出た。それにもかかわらず日本は対米戦に突っ込んでしまった。もっと強く開戦を止まるよう進言すべきだった、という意味のことを告白して泣くのである。(私の記憶による)

涙ながらに謝る星航一

 それはそれで感動的だし、星航一の良心的なキャラクターを印象づけるのだが、しかし、これは「日本が負けるような対米戦をやって実際に負けた」ことの責任、つまり「敗戦責任」ということである。勝てばOKだったのだ。

 そしてここには戦争の相手はアメリカしか考えられていない。日本がアジアに侵略戦争をしかけ、日中戦争が対米戦へとつながっていったことには全く思い至っていない。

 なお、実際にも「総力戦研究所」は存在し、総力戦を戦い抜くための調査研究、教育訓練をする組織だったという。各方面から人材が集められ、法曹界からは三淵乾太郎氏が抜擢されている。

NHKの解説

総力戦研究所の第一回研究生は、官民各層の最も有為なる代表的中堅青年を厳選の上36名を入所せしめて、(略)司法部を代表する研究生として、今回東京民事地方裁判所判事三淵乾太郎君が選抜せられ・・・」と『法律新報』(611号、昭和16年)に記載されている。「総力戦研究所」で研究していたのは事実である。ただし、三淵氏がこのことをどう受け止めていたかは全く分からず、戦後、過去を強く反省したと朝ドラが描く点は創作ということになる。

 きょうのテレビニュースなど見ても、戦争について体験を語る人々は、酷い目にあって戦争はこりごりだ、と「平和の言葉」を語っている。戦争体験者に失礼かもしれないが、「戦争」がのっぺりした、まるで震災のようなイメージである。

 たまたま見たテレ朝「ワイドスクランブル」で、空襲などによる民間人の戦争被害者に国家補償せよと訴える人の中に(たしか)空襲で足を失った女性が登場した。彼女の「攻められたのではなくて、国が始めた戦争でしょう。だったら私たちに補償してもらいたい」という言葉には素直にうなずけた。

 戦争をもっと具体的に捉えていきたい。